偉人つながり

 二宮金次郎、尊徳(以下すべて敬称略)のことについては、シリーズで書かせていただきました。金次郎は、薪を背負いながら読書している像が有名ですね。幸田露伴本の挿絵からイメージされたようです。それが歩きスマホを連想させるため、今どきはあまりよろしくない像とみられています。金次郎が手にしている本は、四書五経の一つである「大学」であるとされています。

 さて、金次郎は、四書五経をはじめ、いろいろな書籍や人物の影響を受けたのですが、そこにはやむにやまれず、真実を求める欲求があったのではないかと思います。彼には大胆な面もありますが、同時に繊細さも兼ね備えており、支えとなる哲学や宗教を必要としたのです。現に新興宗教ともいえる富士講の一つである不二孝の小谷三志(1766-1841)と親交を持ち、成田山新勝寺で修行をした時期もあります。そして、最終的には彼独自の哲学書を記しています。「二と三と一つたがへど軒ならび旭の御修行は友に拝さむ」(文政11年42歳時)という歌を三志に贈っています。二は二宮、三は三志です。三志は、病院から遠くない鳩ケ谷出身で、資料もあるようです。三志はすごい人なのに、金次郎が鳩ケ谷の人に聞いても全然知らない。聖人とはそういうもんだと金次郎は言っています。イエスが、出身地のナザレでは、大工の子だと言われて、奇跡も行わなかったのと同じようです。

 金次郎は、いろいろな力を借りたのですが、もっとも影響を受けた書籍の一つは、「大和俗訓」であると思います。彼の仕えていた殿様である小田原藩藩主、老中でもあった大久保忠真(ただざね)(1778?-1837)も大和俗訓を信奉していました。その作者は、貝原益軒です。益軒は、現代では残念ながらほとんど忘れ去られようとしています。大和俗訓は、松田道雄訳の中公文庫版がありますが絶版です。最近、リクエスト復刊で、岩波文庫版が出たのは喜ばしいことですがいつまで出版されるかわかりません。

 大きな書店で貝原益軒の本が置いてあるとすれば、養生訓だけです。彼は節制して、自分なりの健康法を続けて84歳まで生きたのですから、説得力があります。彼には長く生きなければならない理由があったと思われます。九州黒田藩の官僚だった彼は、多忙な公務から解放してもらえず、70歳頃になってようやく自由な時間を得ることができたのです。それから、彼の本格的な著作活動が始まりました。彼には15年間がどうしても必要だったのでしょう。大和俗訓は78歳の時に書き、養生訓は83歳で書いたのです。

 彼は旅行も好きで、12回も江戸に行き、その倍は京都に行ったと中公文庫の松田の解説に書いてあります。1630年に生まれ、1713年に死去しています。金次郎は、1787-1856年なので、益軒が亡くなって70年ほど経ってから金次郎が生れたことになります。

 金次郎と同じ時代に生きたシーボルト(1796-1866)は、益軒のことを東洋のアリストテレスと呼んだということがどこかに書いてありました。益軒は、儒学、宗教、神話、紀行、医学、儀礼、歴史、地理などきわめて広い分野に関心を持ち、多くの書籍を出版していますから、アリストテレスになぞらえたのかもしれません。シーボルトも植物学その他に広い関心を持ったので、自分と同じような血を感じたのでしょう。

 益軒が関心を寄せた中でも、1000種類以上の植物の名称、形状、来歴などを記した「大和本草」は、驚くべきものです。私は、都立図書館に収蔵されている明治時代に出版されたものを見せてもらったことがあります。植物について採集・研究していたシーボルトも衝撃を受けたことでしょう。益軒は、自分が学んだことをぜひとも後世に伝えなければならないと思っていたのだと思います。

 しかし、植物学や動物学に興味を持つ思想家は益軒だけではありません。アリストテレスは動物学に、ゲーテは植物学に関心を持ち出版しています。これらは岩波文庫で読むことができます。カントのように自分の仕事の範囲を狭めて集中した人もいますが、複数のことをやってもみな超一流になってしまう益軒のような人もいるのですね。カントはケーニヒスブルグの中に生涯住み続け、半径15kmの外には一度も出なかったとされています。思想家でもいろいろな人がいますね。経営学者のドラッカーは、成果を上げた経営者に共通することは何かと言われた時、成果を上げたことだけだと言ったそうです。つまり、偉人にもいろいろなタイプがあるのかもしれません。湯川秀樹は理系ですが、兄の貝塚茂樹は、中国文学者で論語を訳しています。二人とも超一流。しかし、理系と文系。理系とかのの遺伝子ではなく、天才の遺伝子なのか?と首をかしげます。

 益軒に私が興味を持ったのは、金次郎が彼を崇拝していたこともありますが、他の関係もあります。精神科医で有名な斉藤茂太が益軒の「家道訓」を訳しており手に入れ読ませていただきましたが、同じ精神科医が取り上げているのにすごくうれしく感じます。斉藤茂太は、ご自分でもさまざまな啓蒙書を書いています、平易で親しみやすく、亡くなった後でも、相当読まれているのではないかと思います。旅行好きであることなども益軒とどこか通じることがあります。精神科医にありがちな小難しさのようなところのない、おおらかな感じのする文章です。

 益軒の書いたものも非常に分かりやすく、一般人に役立つようにと配慮されて書かれています。同じ儒教者でも、難しくて孤高な書籍が多いのです。ついてこれるならついて来いのような感じのするものが多いと思います。例えば、中江藤樹の翁問答とかは厳しいものです。凡人には無理だと思い知らされる感じです。仏教でいえば聖道門(自力)と浄土門(他力)の違いに近いのでしょうか。

 さて、浦和神経サナトリウムは、東大精神科教授の秋元波留夫の弟子の阿部完市が創設したのですが、秋元は弟子たちが作った病院にサナトリウムとつけたました。秋元は昭和38年6月4日の開院日に、当院を訪れています。さて、秋元も多くの著作をしたためましたが、自分の先達に当たる第2代の東大精神科教授の呉秀三について書いています。呉は多くの仕事を行いましたが、その中の一つにシーボルト伝があります。シーボルトと益軒の関係は上述した通りです。

 秋元が書いた呉の伝記(秋元波留夫:実践精神医学講義.日本文化社2002)ですが、その中に、斉藤茂吉(精神科医、歌人)の呉への感想がもっとも適切であるとして掲載しています。

 「先生(呉)の精神病者に対せられた態度は、いかにも自然で、無理なき流露でむしろ楽しんでおられるのではあるまいかとおもはれるほどであった。益軒の語に、「君子の楽はまよひなくして心をやしなふ」といふのがある。先生の態度はいつも精神病者と同化し、そこに寸毫も「まよひ」のかげがなかったごとくであった。(斉藤茂吉)

 ここで、斉藤茂吉は、先に挙げた斉藤茂太の父親です。つまり、著名な精神科医2代がともに、200年以上前の益軒のことを評価し取り上げているのです。偶然でしょうか?あるいは、茂吉が息子に益軒の本を読んだ方がいいよとでも言ったのでしょうか? 「君子の楽は・・・・」は、益軒十訓の中に「楽訓」があり、今回調べていませんが、おそらくその中にある言葉であろうと思います。このように、益軒は多くの人に影響を与えてきました。そして、いくつもの線で私も御縁をいただいているというふうに感じられます。

 益軒はいかに健全に生きるか、どのようなことを守って生きていくべきか、などを懇切丁寧に、へりくだって書いています。その内容は、人間関係、仕事への取組み、学問のこと、日常生活など、現代でも十分に役立つ普遍的な真理です。精神科医をはじめとする医療関係者もよく読めばそれだけのことはありますし、精神科の患者様にも役立つことが多いのではないかと思います。そういうわけで、益軒の大和俗訓についてご案内させていただければと思います。

 

 

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