恕と仁 大切なこと

 人間が生きる上で大切なこととはどういうことなのか。偉人といわれるような人はどうとらえているのか?それを引き続き探してみます。今回は論語の中から「恕(じょ)」と「仁(じん)」に関することについて取り上げてみます。

まずはじめに、今日の中心人物、論語に登場する 子貢(しこう)について説明いたします。

 子貢は、孔子の31歳下の優秀な弟子のひとりです。豪胆な子路(しろ)とは対照的で、知的で如才ない人物として描かれています。ですが、孔子は子貢のことを顔回(がんかい)という弟子ほどには評価していません。

では、孔子は子貢をどのような人物ととらえていたのでしょうか?

 子貢問いて曰く、賜(し:子貢のこと)や如何(いかん)、と。子曰く、女(なんじ)は器なり、と。曰く、何の器ぞや、と。曰く、͡瑚璉(これん)なり、と。 公冶長第五
訳 子貢が老先生に訪ねたことがあった。「私は自分が何なのかわからないのです。いったい何なのでしょうか」と。先生はお答えになった。「お前には、器才がある」。「どういう器才ですか」。「最高ということだ」。

瑚璉

金谷治の註では、「器物としての限界(それぞれの型があって融通がきかないという点)はあるが、有用な人材としてどこにでも推薦できるというたとえ」といっています。ところが、孔子は別なところで次のように語っています。

子曰く、君子は器ならず。(論語 為政第二)
訳 老先生の教え。教養人は一技・一芸の人ではない。(大局を見ることのできる者である。)訳は加地信行。金谷は、その働きは限定されなくて広く自由であるとしています。

 まったく微妙ですね。孔子によって最高の器とされましたが、君子は器ではないとも言っているのですから。しかも、子貢の特徴は、自分がどの程度進歩しているか、評価されているかに敏感だったことです。向上心は強いのですが。顔回に対する孔子の評価とは異なります。

 子曰く。賢なるかな回や、一箪(いったん)の食、一瓢(いっぴょう)の飲、陋巷(ろうこう)に在り。人はその憂いに堪えず。回や其の楽しみを改めず。賢なるかな回や。(雍也第六)
訳 先生がいわれた、「えらいものだね、回(顔回)は。竹のわりご一杯のめしとひさごのお椀一杯の飲みもので路地のくらしだ。他人ならそのつらさにたえられないだろうが、回は(そうした貧窮の中でも)自分の楽しみを改めようとしない。えらいものだね、回は。」金谷治訳

 というわけで、孔子軍団の中での子貢の立ち位置というのがある程度わかります。さて、本題に入りましょう。

子貢説うて曰わく、一言にして以て終身これを行うべき者ありや。子の曰わく、それ恕か。己の欲せざる所、人に施すこと勿かれ。 (論語 衛霊公第十五)訳 子貢がおたずねしていった、「ひとことだけで一生行っていけるということがありましょうか」。先生(孔子)はいわれた。「まあ恕(じょ:思いやり)だね。自分の望まないことは人にしむけないことだ。 (金谷治訳 岩波文庫)

完全に横道にそれますが、同じようなことをフランスの哲学者ヴォルテールも次のように語っています。

 「自然法とは、自然が全人類に教示する法にほかならない。・・・人定法はどのような情況であろうとも、この自然法のうえにのみ確立されうるものである。そしてこの二つの法の大原理、普遍的原理は地球のどこからであろうと、「自分にしてほしくないことは自分もしてはならない」ということである。さて、この原理に従うなら、ある一人の人間が別の人間に向かって、「私が信じているが、お前には信じられないことを信じるのだ。そうでなければお前の生命はないぞ」などとどうしていえるか理解に苦しむ。これがポルトガル、スペイン、ゴアで言われた言葉である」。ヴォルテール 寛容論 中川信訳 中公文庫 ヴォルテールは、1694-1778 フランス

 二宮金次郎は、天道と人道といっています。自然法と人定法に近いものでしょうか。ともかく、西洋でも同じような考えが示されています。

論語にもどりましょう。論語の中には次のようなところもあります。

仲弓が、孔子に仁とは何かと聞いたことに対して、「・・・己の欲せざる所は人に施すこと勿れ」、金谷の訳だと、「自分の望まないことは人にしむけないようにし(て人を思いやり)・・・」です。顔淵第十二
 これも内容は、上記のフレーズと同じですね。

つまり、自分が人からされて嫌だと感じることは、他人に対してしないようにしよう(A)ということです。

さて、これからが問題です。また、子貢です。

 子貢曰く、我(われ)人の諸(これ)を我に加うるを欲せざるや、吾(われ)も亦(また)諸を人に加うること無からんと欲す、と。子曰く、賜(し:子貢のこと)や、爾(なんじ)の及ぶところに非ざるなり、と。(B)公冶長第五
訳1 子貢が老先生に申し上げた。「私としましては、人が良くないことを私に押し付けてくることを望みませんので、同じように私も良くないことを他人に加うることはすまいと思っております」と。老先生はこうおっしゃられた。「賜君よ、(それはなかなか難しいことだ。)お前にはそれはまだまだというところだな」と。加地伸行訳 講談社学術文庫

金谷治の訳だとこうなる
訳2 子貢がいった、「わたくしは、人が自分にしかけるのを好まないようなことは、わたしの方でも人にしかけないようにしたい。」先生はいわれた、「賜よ、お前にできることではない。」金谷治訳

 ほかにもいくつもの訳がありますが、渋沢栄一の論語講義をみてみましょう。竹内均や斉藤孝が論語講義を訳しています。

 渋沢栄一は、(A)の、「自分の欲しないことは人にするなというぐらいは未熟な私でもそれほど難しいことではない。自己を主眼とするから行いやすい」という。しかし、(B)の「私は、人が自分にして欲しくないことは、私も人にしないようにしたい」というのは難しいという。(A)は恕であり(B)は仁であるという。
 しかし、何だか今一つ区別がわかりにくいと感じてしまいます。

 ここらへん、いろいろな訳があります。(B)を(A)とほぼ同じ意味にとっている訳者もいますし、どちらかはっきりしない訳者も多いです。どうもわかりにくいと思います。

 伊藤仁斎の論語古義においては、恕との区別を挙げていません。「堯や舜であっても広く民に恩恵を施して、多くの人々を救うことは十分にはできないと心を痛められたのに、子貢は、自分から仁者の立場に立っているという難点があり、深い意味で自分の進歩を求める気持ちに欠けるとして、孔子は抑えられたのである」と言います。
 つまり、子貢は思いあがっていて、そのことに気づいていない、謙虚さが足りないということを示しているのだと言っているようです。自分のことを知らないと孔子から思われたということかもしれません。

 それにしても解釈は異なります。そこで、根本に帰って、朱子(1130-1200)の説明を見てみましょう。論語集注 土井健次郎訳 東洋文庫 平凡社

 子貢が言った。「他人が自分にしようとしてほしくないことを、自分もまた他人にしようと望まない」。これは仁者ができることであって、努めてするようなものでない。それゆえ孔子は、子貢が及ぶところではないと見なしたのである。そして、程子(ていし)1033-1107 の言葉を引用しています。程子が言われた。「他人が自分にしてほしくないことを、自分もまた他人にしようと望むことが無い」のは、仁である。「自分にしてほしくないことを、他人にしてはならない(勿れ:なかれ)」とするのは、恕である。恕は子貢でも努める対象になりうる。しかし仁は、及ぶところではない」。私(朱子)が思うに、「無し」というのは、自然にそういう状況である。「勿れ」の方は意志的に禁止するという意味である。これが仁と恕の区別がある理由である。
 朱子の見方は、仁者は自然にできる、恕の水準では努力しているということに解釈の力点を置いているようです。

 顔回は孔子より早く病死し、子路は戦死し、孔子のグループを継いだのは曾子とも言われています。そして曾子が論語をまとめたという説があるようです。その曾子はどういう意味で言ったのでしょうか?私はまったく適当な解釈ですが、次のように考えたのかもしれないと思いました。

 ある人(ア)がいて、その人が他人(イ)からして欲しくないことがあるとします。どういうことがして欲しくないことかは、私(ウ)は想像でしかわかりません。そのして欲しくないことを、私(ウ)は、他の他の人(エ)にしないように気を付けていくということ。というのではどうでしょうか。(イ)や(エ)は複数でもいいんです。

 (ウ)私、自分は、自分で嫌なこと、されたくないことはわかります。それを他人(エ)にしないようにすることは注意すれば可能かもしれません。それは渋沢のいうとおりです。ただこれも簡単ではないでしょう。問題は、他人(エ)は、(ウ)が嫌なことではなくて、自分(エ)が嫌なことをやってほしくないのです。自分が嫌なことと人が嫌なことがだいたい同じだからたいていは問題にならないのです。

 しかし、(ウ)私、自分は、ある人(ア)が何を欲さないのかは分かりません。嫌なことはわかりません。その人が他人(イ)からして欲しくないことはわかりません。それをわかるのは、想像力とか、人の立場に立って考える力とか、こだわらない柔軟な心などが必要でしょう。自分とまったく違う考え方をする人がいるということに思いをはせられなければなりません。(いずれも精神医療に携わる人にはある程度必要な能力です)自分の嫌なことを(ア)の人も嫌だろうとは必ずしも言えないわけです。それは押し付けになってしまう。また、自分の嫌なことが他人の嫌なこととは限らないといえます。他人のことはわからないのであるという謙虚さが必要かもしれません。

 だから、私たちが他者を尊重して接する場合に、私の好き嫌い、価値判断を押し付けていないか、他人の好き嫌い、価値観を尊重していないのではないかと考えます。精神療法の根本にもかかわる問題です。普遍的な価値、共通する価値というのもまたありましょう。価値判断の違いを明確にしていくということも有効かもしれません。へんな例えかもしれませんが、贈り物をするときに、相手が好むものでなくて、自分が好むものを贈ってしまうというのはよくあることかもしれません。

 これは、なかなかできませんね。(A)でも難しいのですから。でもこれに近づけば、あらゆることがうまく回っていくような気がします。不完全であったとしても、想像するだけで精神療法や人間関係には大きな効力があるような気がします。そういうことが朱子のいうように自然にできるようになれば楽なんでしょうね。「七十にして心の欲する所に従いて矩をこえず」

 ★このブログの内容は、院長個人によるもので、病院の考えを代表するものではありません。

 

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