優しくありなさい その後

「優しくありなさい。あなたの出会う人々は皆,困難な闘いに挑んでいるのだから」という言葉は、プラトンのものとされ、その言葉を表題にした書籍が出版されています。しかし、それは違うのではないかとことからスタートしたこの企画です。

 「優しくありなさい その7」で挙げた米国のブログから、 John Watson という人が最初に書いたのではないかということがわかりました。
 彼は、1850年にEssex(イングランド東部の州)で生まれ、エジンバラ大学で学び、教会の副牧師として英国各地の教会を転々としましたが、アメリカのエール大学で授業も行い、たくさんの著作を残し1907年に亡くなっています。

 1897年の新聞ブリティッシュ・ウイークリーのクリスマス版に、彼は ”Be pitiful, for every man is fighting a hard battle.”と書いたそうです。これが、辿れるところの最初のようです。彼が教員をしたエール大学の名言集には、プラトンのものだと書いてあるのが、また、何ともいえないところです。先に挙げた日本の書籍は、このエール大学の名言集から持ってきたのではないかと私は思っています。

 もう、これでけりがついたと思っていたのですが、違っていました。不思議です。何か考えて、考えて、わからなくて放置した場合に、それが潜在意識の中にとどまり、外界の出来事を何故か引き寄せる、そんな感じがします。ちょっと宗教的になりますが、そして、偶然に出会うとか、発見するということがあります。

 「優しくありなさい」は、私の中で終了していたと思ったのですが、潜在意識の中には継続していたのか、面白いものを引き寄せたのでしょうか。それをこれから説明いたします。

 最近、マルクス・アウレーリウス(ローマの哲人であり皇帝121-180)の「自省録」岩波文庫青610-1 神谷美恵子訳をみてみました。すると、こういう言葉をみつけたのです。

 第7巻63 「すべての魂は、その意志に反して真理を奪われている」(59)という。 正義や節制や善意やその他あらゆる同様の徳についても同じことなのだ。このことをつねに念頭におく必要がある。なぜならば(それによって)君はすべての人にたいしてもっと優しくなるであろうから。

 さあ、この註59をみてみよう。

 (59)エピクテートス「語録」1.28.4、2.22.36 に プラトーンの言葉として引かれている。プラトーン「ソピステース」228cの言い換えである。8巻14章、10巻30章なども参照。

 えっー。何でプラトンが出てくるの。私は米国のブログをみて、1897年のジョン・ワトソンの言葉が始まりだったと思ったのに。プラトンの言葉だっていうのは間違いだと踏んで、このブログを始めたのに。だって、プラトンは、「国家」でも「ソクラテス」の弁明でも、「○○しなさい」という命令口調の表現はありませんから。でもここで、再びプラトンが出てくるとは。プラトン恐るべし。

 しかし、「ソピステース」は、読みませんでした。岩波の青本にはなく、プラトン全集にしか、訳されたものはないですから。

 そして、エピクテトスですが、奴隷だったストア派の哲学者です。私は、清沢満之(きよさわまんし)(浄土真宗のお坊さん、哲学者 1863年(文久3年) – 1903年(明治36年))が取り上げているので知りました。しかし、「語録」の指定された2か所の部分は、いくつか見た訳本すべてで、省略されています。残念。

 鈴木照雄訳 講談社学術文庫版の自省録で、同じ個所を確認してみましょう。

「すべての魂が真理を欠くのはその意に反してのことである」という先人の言葉がある。まことにそのようにして正義、思慮、親切、それに類するすべてのものも欠くのである。もっとも肝心なことは、そのことを不断に心に温めていることである。なぜなら、そのときおまえはすべての人に対し優しくあるであろうから。

 さて、プラトンのソピステースですが、エレアからの客人とテアイテトスとの対話から構成されています。テアイテトスは、青年で、彼とソクラテスとの会話編が、「テアイテトス」であり、これは岩波の青本にもあります。

 その228Cの内容ですが、この228Cの最後の文章で、テアイテトスは、エレアからの客人に誘導され、次のような結論を出します。「さっきあなたが最初に言われたときにはよくわからなかった事柄を、私は全面的に承認しなければなりません。すなわち、魂の中にある欠陥には二つの種類があること、そして、臆病や放埓や不正はすべて、われわれの内なる病気であるとみなすべきであり、他方、多種多様な無知の状態は、醜さであると考えるべきである、と。(藤沢令夫、水野有庸訳:ソピステス プラトン全集3 岩波書店、1976)

 さて、これらを参考に、マルクス・アウレーリアスの言葉を分かりやすく解釈するとどうなるか。

 「正義や、考え方、親切であることなど多くの徳性の点で、すべての人は不完全な状態だといえる。本人は、本来は、人間としての特性を発現したいのであるが、そういう当人の意に反して、徳性を欠いてしまう。それは、病気のようなものと同じと考えてよい。つまり、人間が特性を発揮できず、他人を不快にさせてしまったり、嫌悪感を起こさせたりするが、それは、人が本来意図したことではなく病気のように不可避なことで、その人の責任を問えることではないのだ。もっとも大切なことは、受け取る人が、そのことをいつも意識していることだ。そうすれば、人に対して、その人が特性と言う意味で欠陥を呈しているとみえても、それは不可避なこととして優しく受け取ることができるのではないか」

 これをもっと噛み砕いて言いなおしましょう。

「仕事上、あるいはプライベートで毎日多くの人と出会いますが、その人の態度とか、言葉で、傷つくとか、不快な思いをするということがあると思います。すると、自分もその人に対して否定的な感情を抱いてしまいがちです。しかし、その人が道徳的に問題のある行動をとったのは、そうしようと思ったからではなくて、違った理由や事情があるからです。そのようにいつも正しく認識できれば、他者に対して優しい気持ちでいられるでしょうし、事態を好転させることになるでしょう」

なかなか他人の事情とかはわかりませんよね。しかし、わかったように思ってしまうことはよくあります。「私ならこうする」などというようにすごく冷たい考えをします。困難な闘いに挑んでいるとか、意に反して真理を欠いているとか、想像できればいいのかもしれません。せめて、人の事情については人間は本当には分からないものなのだということが分かればいいのかもしれません。

 さて、プラトンは、「優しくありなさい」とは語っていませんが、優しくあるために認識しなければならないこと、つまり、「意に反して魂が徳性を失っていること」について明確に語っています。驚きです。プラトンの怨念なのでしょうか。


 ジョン・ワトソンは、牧師という立場ですし、マルクス・アウレーリウスもプラトンも読んでいたでしょう。ワトソンはたぶん、自分単独でこの言葉を作ったのではないでしょう。プラトン、アウレーリウスか他の人の言葉に影響を受けて、ある時、着想したのではないでしょうか。彼らは、真理という点において、時代を超えてつながっているのでしょう。

 たぶん、認識がしっかりとあれば、優しさなどは自然に出てくるものであり、問題は認識でしょう。そういう意味では、プラトンは本質的なところだけ語っているということなのかもしれません。

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