生き方 を妙好人に学ぶ その2

 生き方 妙好人 に学びます。 妙好人の一人といわれた因幡の源左について、「その1」で彼の悟りの時までをご紹介いたしました。源左は浄土真宗の門徒であり、彼をより理解するためには、まず浄土真宗について学ぶ必要があります。浄土真宗は、浄土宗の開祖である法然の弟子、親鸞が鎌倉時代にはじめたものです。といっても法然の教えを受け継いでおり、親鸞自身は新しいものを作ろうとしたわけでなく弟子は一人も持たないと言っています。浄土宗も浄土真宗も他力宗です。親鸞がいかに法然を信頼していたかは、歎異抄の言葉によく表現されています。

妙好人に学ぶ生き方 法然
法然

「たとい法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄に堕ちたりとも、さらに後悔すべからず候」(たとえ、法然上人にだまされて念仏した結果、地獄に堕ちても、なんら後悔しない)とまで言っています。

 妙好人に学ぶ生き方 親鸞
親鸞

 他力の考え方は、最近では、五木寛之「他力」という本もありますし、浄土真宗の僧侶でもあった清沢満之(きよさわまんし1863-1902)は、その他力的な思想を岩波の青帯の「清沢満之集」や中公クラシックスの「清沢満之」に表現していますが、きわめて奥深く魅了されます。彼が、奴隷の哲人エピクトテス(55年頃-136年、ストア学派)について一文を残しているのにも驚きます。エピクトテスも中公クラシックスに「エピクトテス 語録 要録」の1っ冊があります。今後、エピクトテスなどのストア学派の考えについてもご報告させていただきたいと思っています。清沢は浄土真宗の寺の住職でもありましたが、ストア学派の考えも取り入れるなど、自分の宗教に固執しないところがありました。

 また、脱線してしまいましたが、浄土真宗とはどういうものかを知ることが第一だと思います。柳宗悦の「南無阿弥陀仏」から、ポイントを抜き出してみます。

 「念仏はインドに発し、中国で信仰が熟したが、一宗派ができたのは、日本であり、不思議なことに韓国には大きな発展のあとがない。仏教の流れのうち、浄土門、念仏による浄土往生を説く宗門として、法然、親鸞、一遍が中心である。浄土門は、他力門であり、聖道門が自力門である。しかし、多くの者は自力の難行に堪えるものではないことから、この一道があることが恩寵である。鎌倉時代に法然は中国の善導から受け継ぎ、日本で開花させた。浄土真宗の親鸞は新しい宗派を起こそうとは思わず、師である法然の教えを守ろうとした。彼は、他力門の教えを純化し、一切の自力的要素を捨て去り、ただ弥陀の慈悲そのものに万事をゆだねることを求めた。
 浄土門が大切にする経の一つに「無量寿経」がある。この今日の重要な点は、48個の大願が記されていることである。経によれば、ある国王が、王位を捨て、国を去り、修行により、生死の苦の根を断とうと、一沙門の身となって、名前を法蔵と改めた。法蔵菩薩(菩薩とは修行中で正覚に達していない)この経の第18番目の願が、救われがたい凡夫を救うというまで、法蔵は、如来(正覚したもの、仏)にならないという願である、南無阿弥陀仏と唱えるだけで往生の業としては十分なのである。もし、もろもろの人々が心から信心を起こして、浄土に行きたいと願い、名号を称える場合、もし浄土に生まれえないのならば、私は仏になろうとは思わぬというのである。そして、法蔵菩薩は阿弥陀如来になって法を説いているという。もっとも驚くべきことは、法蔵菩薩の成仏と我々の成仏が同時だということである。これならばどんな凡夫だってできるではないか。罪ある者、愚かな者、汚れたる者、邪なるもの、高ぶる者、虐げられた者、これら一切の者たちこそ、凡夫のなかの凡夫ではないか。われわれは凡夫になり切れないために救われないのである。凡夫のくせに凡夫でない振る舞いをするのが妄執の悲しさである」

 以上のように柳は語っている。柳の説明を部分部分切り取ったので、わかりにくいかもしれません。これが、浄土門、他力門の原理といったところでしょうか。しかし、弱者を救う、罪に苦しむものを救うというのはキリスト教的にも似た逆説的な面がみえます。親鸞の弟子唯円が書いたとされる歎異抄には、有名な一文「善人なおもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」があります。愛や真実といわれるものと逆説がつきまとうのは、共通しているように思われます。「それでもなお、人を愛しなさい 人生の意味を見つけるための10カ条」ケント・キース(早川書房)は、愛の逆説に焦点を当てています。第1カ条は「人は不合理でわからず屋で、わがままな存在だ。それでもなお、人を愛しなさい」。10カ条は、正直に生きたり、人に尽くせば、それなりの見返りがあると思うのでなく、逆に不利を蒙るのが普通だと考えて、なお、守るべき真実、愛を持ち続けよということを述べています。前にブログでお伝えしたレヴィナスの「忘恩」なんかがこれに当たりそうです。見返りが得られたらかえってだめなのです。

 しかし、なかなか人間は自分を凡人とは思えません。現実になかなか成果が出なくても、自分はどこか優れた人間であるとか、才能があるとか、それを上司は分かってくれない、環境がかわれば自分も飛躍できるのに、今の環境が悪いのだ、となるのがよくあることだと思います。自分が優れているというのを捨てきれないと思います。捨てきれないから、どこか高慢なところがあり、自分に対する他人の態度が気にくわない、もっと大切にされて当然だ、もっと評価が高くて当然だという考えになったり、争いになることもあります。そこから、簡単には抜けきれないのが普通だと思います。
 一方、こういう考えもあるでしょう。自分の能力を信じる、自分はオーケーな人間だ、win-winの関係で行こう、自分の才能を開花させよう、自己実現して成功しよう、夢に向かって走ろう・・・・・・。
 実際、普通はこれらの中をぐるぐると回っていることが多いのではないかと思います。

 一応、簡単ですが、浄土門、他力門についてご説明させていただきました。歎異抄をゆっくり読んでみてはいかがでしょうか。より妙好人が理解しやすくなるかもしれません。浄土門の本質は、どんな人も「南無阿弥陀仏」と唱えれば浄土にいけるということを法蔵菩薩は18番目の願によって示してくれたのだということになります。自己の計らいを捨てて、他力にゆだねるというの教えです。この道を源左は歩みました。

 次は、源左の具体的な言動をみていきましょう。 

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