よい奉仕をするために 聖人たちに聞く

 私たちの仕事は、医療を通じて他者に奉仕することですが、これは、とても難しいことです。なぜなら、人間は感情の動物であり、好き嫌いがあり、日々の機嫌の違いもあって、いつでもだれにでも親切にかかわるということは難しいものです。

 自分が思うような相手であればこそ援助するが、そうでなければ、放置したり、適当にかかわったり、逆に困らせることだってあるかもしれません。

 どうしたら、いつでもどこでも、そして、自分に対してよく思ってない人にも、また、世間から嫌われている人にも親切に奉仕できるでしょうか。

 ヒポクラテスの誓いには、「いかなる患家を訪れるときもそれはただ病者を利益するためであり、あらゆる勝手な戯れや堕落の行いを避ける。女と男、自由人と奴隷のちがいを考慮しない」とあります。

ヒポクラテス

 貝原益軒はこのように言っています。(養生訓、択医、中公クラシックス)

「医は仁術である。仁愛のこころを本とし、人を救うのを志とすべきである。自分の利益ばかりを考えてはいけない。医者となるからには、君子医となるべきだ。小人医になってはならぬ。君子医は人のためにする。人を救うことだけが志である。小人医は自分のためにする。自分の利益だけを志し、人を救うことだけに志すことがない。医は仁術である。人を救うことをもって志とするべきである。病家の貴賤、貧富の隔てなく、こころを尽くして病気を治すべきである。・・・小人医は医術がはやると、自分をえらいもののように思って、貧賤な病家をあなどる。これは医の本意を失ったものである。・・・およそ医者は医道に専一というのでなければならない。ほかに珍しいものを愛玩してはならぬ。専一でないと医道にくわしくなれぬ。(ブログなどやっていてはだめです)」これは、益軒が1713年83歳のときに書いたものです。益軒おそるべし。シーボルトに東洋のアリストテレスといわれていました。

貝原益軒

 このような気持ちを持ち続けないといけないのですが、そう簡単だとは言えません。

 ナイチンゲールは、精神を病んでいる患者さんたちを丁重に忍耐強く看護するのは、さらに慈悲のある行いです。けれどそれよりもさらに慈悲に満ちた行為があります。たとえば、自分に対して親切ではない人に親切にすること、自分に対して不愉快なふるまいをする人に、礼儀正しくふるまうこと。失礼なことをされたときに、あるいはされたと思ったとき、また、深く傷つけられたときにも、その場で相手を許すことです。(ナイチンゲール:心に効く言葉 サンマーク出版)

 いやあ、素晴らしいですね。逆説の愛。思い出すのは、映画で見た「レ・ミゼラブル」です。これを新渡戸稲造が取り上げているので抜粋してみます。

 有名なるユーゴーの哀史ー長く鉄窓の下に呻吟していた者が放免されたが、世間では何人も相手にしてくれるものがない。仕方なしにある和尚さん(神父)の所に宿を請いに来た。和尚は温顔をもってこれを迎え、その夜は快く家族と食卓を共にせしめ、監獄のことについては露ほども語らず、四方山の話に時をうつした後、寝間に案内された。・・・夜が更けてふと目が覚めると、また、例の悪癖が出た。そこでムクと床より起き上がり、和尚の寝室に入り、和尚が熟眠していたので、有り合わせの銀のろうそく立てを盗んで逃げだした。

ミカエル司教

 翌朝になって、和尚のところへ警官が前夜の客をひいて入ってきた。「和尚さん、お宅には何か紛失物はありませんか。この銀のろうそく立ては、村ではお宅よりほかにはないものですが、きっと盗まれたのでありましょう」といって見せる。「イヤそのろうそく立ては私がそのお客さんに進上したのです」といわれ、警官は手持ち無沙汰に「ああそうですか」といって、そのまま引き上げた。後で和尚は悪漢に「貴方はいつまでも、こんな所にいては、どんな目に遭わされるかもしれぬ。早く遠方に行き、適当な職業を求めなさい」と親切に説いて、叱りもせずに帰らしめた」。

新渡戸稲造

 のちにこの男が慈善家となり、歴史に稀な善人になったという。情というものは偉大なる感化力がある。悪漢をして善根に進ましめたのは和尚の同情である。僕らは到底この和尚には、情の力が及ばぬけれど出来るだけこれを勤めたいと思う」と述べています。(新渡戸稲造:世渡りの道 文芸学藝ライブラリー)

 貝原益軒にもどりますが、彼は、博識の人物ですが、それだけではなく、非常に愛他的でもありました。大和俗訓には、あるべき人間関係の態度が示されています。「人が自分に対してしたがわないことがあったら、人を責めないで、自分の身をかえりみてとがめるがよい」、「時間を惜しまない人は、学ぶことも努めることもしないから、かならず才知も徳行も、芸能もない。・・・医者はかならずいやしい職人のような医者になる」、「愚人が学問をそしり、われを攻撃しても、知恵がないからであると思って、あわれんで許すがよい。怒ることではない。また、愚人が間違ったことをいうからといって気にかけることはない。聖人はこういう頑固な人をあわれんで、怒り憎まれなかった。これをもって手本とするがよい」、「人たるものは、天地の心にしたがい、仁愛をもって心として行うべきである。己を愛する心をもって人を愛するのが仁である。人の心である」、「何事も、きっとわけがあることだろうと思いやって、人をたやすく恨みとがめてはいけない。わが心にかなわないからといって、過ちのない人を恨みそしるのは、たいへん罪深いことである」などなどが書かれています。二宮金次郎は、この大和俗訓を愛読書にしていました。

 このようなことは、頭ではわかります。しかし、人間はどうしても受け入れらないとか、奉仕することが苦しくなるということがあります。どこから、このような行為を継続するためのエネルギーや寛容さや強い心が生まれるのでしょうか。それを次回、考えてみます。(2020年5月6日初出)

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