精神科医の独語と毒語

いじめの構造

 昨年にSNS上の中傷によって自殺においこまれた女子プロレスラーがいたが、いじめの問題はなくなっていない。コロナによるリモート授業用に配布したタブレットによるいじめと自殺例もあるそうだ。これらの内容をみると、いじめる側には、発散したい鬱屈した不健全な感情(コンプレックス)があり、自己の安定を少しでも保つためにその感情は吐け口を求めている。それが健全な形で解消されればよいのであるが、そうでない場合、いじめによる発散によって、精神のバランスを保とうとするのではないか。もちろん、それは当人の意識下にあって、自分では気がつかないものである。

 そして、ターゲットは自分にとって何らかの引っ掛かりがある人物であったり、強い反抗をしてこない安全な人物であり、その人物が行ったわずかな行動や発言などを取り上げて、攻撃し困らせるということが多い。家庭内暴力でもパワハラでも似たような構造があるような気がする。ちょっとした突っ込みどころを取り上げて、自分の気が付かないうっぷんを晴らす手段とする。突っ込みどころがあるように思わせる弱者(仕事上のミスとか、仕事処理の遅さとか・・・)を困らせる。

 いじめる側は、正義の制裁だと勘違いしてしまっている。相手に反省を促し立ち直らせるためだと思っているかもしれない。程度の差こそあれ、誰にでもある。しかし、自分の心理的に未解決な問題の処理の程度が大きければ、それだけ病的だ。自分で気づくことはないだろう。形を変えて繰り返される。解決した方が良いものは、いじめる側に隠れている大きな暗闇である。
 私は専門家ではないが、単純に考えればそのような構造がいじめの背景にはあるのでないかと思う。もちろん、専門家はもっと複雑で真に迫るメカニズムを知っている。9月16日

破衣(はい)とは何か

 知的障害の方たちの問題行動には、精神障害の方たちとは異なる問題行動があります。それこそ、独特な行動が。そして、それらに名称がつけられています。たとえば、自分の来ている服とか、人の来ている服とか、しまってある服を破いてしまう行為があります。これを、知的障害の施設の職員は「破衣(はい)」とか、もっと学術的に用いるときは「破衣行為」と呼んでいます。どこからきた言葉かはわかりません。広辞苑にも載っていない言葉です。精神医学の教科書にも載っていません。ネット上で検索してみると、吉川英治が用いることがあったようですが、衣を破くのではなく、貧しさや無頓着さの象徴としての「破れた衣」の意のようです。

 最近読んだ本に、衣を破くという行為が旧約聖書にあるということが載っていました。「・・・・激しい悲しみを表現する際に衣を引き裂くという、イスラエルの習慣を示唆します。旧約聖書の「創世記」には、息子ヨセフが死んだと思い、悲しむヤコブが、自分の着ている衣服を引き裂く場面があります。(37章34節)」。

 また、同じく旧約聖書のヨブ記の中には次のようなことがあるそうです。「何の悪事もしていないのに、突然すべてを奪われたヨブは、「上着を引き裂いて、頭をそり、地に身を投げ」て嘆き悲しみました」。(1章20節)

 知的障害の方たちの破衣には、悲しみが満ちているのでしょうか。9月12日

インターロイキン-6

 IL-6(インターロイキン-6)は、白血球等が産生するサイトカインという物質の一種類です。だいぶ前に、日本人が発見しました。Hirano T, Yasukawa K, Harada H, et al : Complementary DNA for a novel human interleukin (BSF-2) that induces B lymphocytes to produce immunoglobulin. Nature 324:73–76, 1986

 ずいぶん昔に、悪性症候群で血清アルブミンが低下することを発見し論文化しましたが、なぜ、アルブミンが低下するかは分かりませんでした。悪性症候群の診断基準を作った人がその中に、褥瘡の形成をいれていました。しかし、その研究者はなぜ褥瘡が生じるかが分かっていませんでした。そのほかにも、栄養状態が悪いことが悪性症候群のリスクファクターとした研究者もいましたが、それも間違いなように思います。悪性症候群になると、急速にアルブミンもグロブリンも、したがって、総蛋白も低下し、栄養状態が悪かった人に悪性症候群が発症したかのように勘違いしてしまうのです。このように、世界の一流の研究者でもわからないことがあったり、間違った見解をもったりしています。

 さて、悪性症候群で、アルブミンが低下する理由が私にはわかりませんでしたし、世界のだれもアルブミンの低下さえ、気が付きませんので、分からないわけです。しかし、最近、炎症性サイトカインであるIL-6が悪性症候群の時にも高まることが報告されています。IL-6はさまざまな作用を持ちますが、血管透過性を高めて、アルブミンを血管外に急速に出してしまうということをずいぶん前に言っている研究者がいることがわかりました。Fleck A, Raines G, Hawker F, et al : Increased vascular permeability: a major cause of hypoalbuminaemia in disease and injury. Lancet  8432:781-784, 1985

 いろいろつなぎ合わせるとこうです。悪性症候群のリスクファクターはいろいろありますが、薬でいえば、もちろん、ドパミン系を強く遮断する抗精神病薬があげられますが、その他に、メトクラプラミド(プリンペラン)は、やはりドパミン系をブロックするので危ないです。悪性症候群になるとイレウス気味になる場合があり、その時に、メトクラプラミドを用いてしまうと、重篤な悪性症候群になってしまうのです。それから、リーマスは、排尿を促進し、脱水を導き出しますが、悪性症候群になりかけで無動になるときに脱水促進がすすめば危ないことは明らかです。

 さて、悪性症候群になってしまった場合に、IL-6が増加する、すると、血管透過性亢進がおこり、アルブミンが急速に低下する、これは、通常のアルブミンの産生と分解の速度をはるかにしのぐ急速な反応です。アルブミンの低下により、褥瘡が発生します。無動も関係するでしょう。

 ここまででもたいへん面白いのですが、これで終わりではありません。悪性症候群になったあと、回復した後に、何か月間とか半年とかかかって体内に変化が生じます。IgGが増加するのです。グロブリンが増加するのです。これは何か? 悪性症候群が感染ならわかります。A型肝炎に罹患した時に、何か月もかかって抗体ができる。それと同じような変化が体内に生まれるのです。それはなぜか?インターロイキン-6は、B細胞を活性化して抗体産生を促進します(例えばHirano T、1986)。悪性症候群が回復した後、徐々に、低下していたアルブミンは正常にもどっていきます。ところが、グロブリンは、一旦低下した後、もとよりずっと多くなってしまうのです。これら、一連の流れを生じさせるのが、IL-6をはじめとするサイトカインだろうと私は思うのです。

 さて、ウィシマさんが、悪性症候群でなかったかが気になります。検査結果をみると、アルブミンが低下しています。しかも、その何日か前に精神科医が薬を処方しています。何を投与したのか? ウィシマさんが動かなかったのは、悪性症候群の「無動」ではなかったか? 発熱はなかったのでしょうか? 私に投与薬物と検査結果、ビデオを見せてください。私は同業だからと言って精神科医をかばう気持ちは一切ありません(毒語)。真実が知りたいです。

 Fleckは、アルブミンの低下は栄養状態の悪さではなく、炎症によるのだといっています。わたしもそう思います。Fleck A : Clinical and nutritional aspects of changes in acute-phase proteins during inflammation. Proc Nutr Soc 48:347-54, 1989

 なぜわたしがそう思うかですが、かつて、キリスト教に関する妄想を持つ男性の患者さんがいて、入院したが、40日間食べないと言い出したのです。自らをキリストになぞらえて断食するというのです。実際に彼は40日間食べず、点滴だけは受け入れたのですが、当院でできるのは、ごく低カロリーの点滴だけで、たんぱく質など入っていないものでした。しかし、40日たってもアルブミンは不思議なことに低下していませんでした。Fleckの言う通り、アルブミンは主に炎症で低下するのです。

 さて、なぜ今、IL-6について書いたかですが、一つは、最近、IL-6が保険点数がついたようです。ちゃんと検査できるようになりました。それを知ったことが一つ。

そして、悪性症候群だけでなく、精神疾患の発病や再燃にもIL-6が深く関わっていることを私がはっきり意識し始めたからです。今後、お話ししていきたいと思います。

 精神科病院に勤めることはいいですよ。なにしろ、世界の研究者の知らないことを入院患者さんたちが教えてくれますから。 9月10日

ガンジー聖書 盗賊について

 ガンジー聖書と呼ばれている本があります。「獄中からの手紙」1930年、ガンジーは不服従運動などで、ヤラヴァダー刑務所に収監されていました。獄中からの手紙は、彼が修道場の同胞に書いた手紙です。

 「私たちが盗賊を罰するのは、彼らが私たちに害をなすと考えるからです。ところが盗賊は、わたしたちを襲わずにやりすごすかもしれません。けれどもそれは、彼らが他の犠牲者に狙いを向けただけのことです。目をつけられた他の犠牲者もまた人間であり、姿かたちをかえたわたしたち自身にほかなりません。・・・・」

 犯罪者の更生支援にかかわった岡本茂樹「反省させると犯罪者になります」。二宮金次郎の善悪一円の考え方。レ・ミゼラブルの神父が、盗みを犯した主人公に対して取った態度。どこか共通するものがあります。9月5日

 高級住宅地の児童相談所

 「障害は誰のものか」で述べましたが、障害はその障害を持った個人のものではなくて、みんなのものかもしれません。障害を分かち合うことはできないでしょうか。直接支援することができなくても、一部だけなら担うことができるかもしれません。
 東京都の高級住宅街の青山に児童相談所ができると聞いた近隣の住民からは反対の声が上がりました。環境が悪化するという理由だったと思います。児童相談所にはさまざまな不幸や障害や悲しみがあります。直接助けることはできなくても、地域に受け入れるだけでも大きな奉仕になるのではないでしょうか。ほんのわずかな犠牲を捧げるということです。
 当院の患者さんが外出して歩けなくなってしまったときに、病院まで連れてきてくれる近所の人がいました。何の見返りも求めない素晴らしい行為だと思います。その本人にも周囲にも大きな喜びを与えます。9月1日

 障害は誰のものか

 東京パラリンピックが開かれています。パラリンピックは精神障害者は参加しない大会だそうです。精神障害は、競技のスタートラインにも立つのですら困難にさせる障害なのかもしれません。
 身体障害にせよ、精神障害にせよ、障害とは誰に与えられたものなのでしょうか。その個人のようにもみえますが、そうではなくて、全体に与えられているはずのものとは考えられないでしょうか。本当は、自分にも与えられる障害であるのに、ある人だけに集中して与えられる、つまり、ある特定の人が自分の代わりに重荷を背負ってくれているとは考えられないでしょうか。
 そう考えると、自分の果たすべき責任も少しはまともに認識できるかもしれません。8月31日

ソローと金次郎の共通点

 偉人と偉人の共通点を探すのが好きです。ヘンリー・デヴィッド・ソロー(1817-1862)は、米国のボストン近くのコンコードに生まれ、ハーバード大学を卒業しました。一時期には、都会を離れて森の中に一人で生活し、「森の生活」を書いた偉大な思想家です。ゴールドラッシュに群がる人間の不健康さや馬鹿馬鹿しさを描き、人はどう生きるべきかを述べた講演「生き方の原則」の中で彼はこう語っています。
 「私はかつて薪(まき)の束を測る物差しを考案して、それをボストンで使ってもらおうとしました。しかし、薪を測定するボストンの担当者の話はこうでした。売り手は自分たちの薪を正しく測定してもらいたがらず、売り手はたいてい橋を越える前にチャールズタウンで薪を計らせているというのです」(ヘンリー・デヴイッド・ソロー:生き方の原則 山口晃訳 文遊社)
 二宮金次郎(1787-1856)は、1820年に、年貢米を計る桝(ます)を考案して藩に献納しました。その時、小田原には18種類もの桝があり、少しずつ自分に都合のよいように作られていました。金次郎の桝がその後、きちんと使われたかはよくわかりません。それでも、藩では一応認められ、金次郎の名前も武士の名前の下に小さく書状に書かれていますので、ソローの場合より良かったのかもしれません。金次郎も薪を売る仕事をしたことがあり、それが銅像になっていますね。薪という点でも共通しています。不当な取引により、誰かが徳をして、誰かが損をする、そういう理不尽さに2人とも堪えらえなかったのかもしれません。数学が堪能であった2人は同じような方法で問題を解決しようとしたのです。時間軸でみると、金次郎が桝(米の計測器)を作った後に、ソローが薪の計測器を作ったことになります。自分だけが得をするような努力をする、あるいは計画を立て、頭を使うことは、誰かを損させることになります。それは幸せには逆行するものだとソローは考えました。一攫千金を狙って、金鉱を掘り当てようとする努力が間違いであると指摘したのです。現代でもそういった思い違いが延々と続いているような気がします。
 金次郎は数学を用いて復興事業を行い、ソローは数学を用いた測量を生業とし、ナイチンゲールは、統計学を用いて感染症死亡率を下げたのです。同じ1800年代に、日本と米国と英国とで。8月30日 

スリランカ人の ウィシュマ さん

ネット上で拡散されたもの

 3月6日、名古屋出入国在留管理局の収容施設で、スリランカ出身のウィシュマ・サンダマリさんが亡くなりました。妹さんが来日していますが、文書は黒塗り、動画も少しだけ妹さんに公開されただけのようです。

 亡くなった日の検査所見です。見たことのないような著しい異常値が並んでいます。直前に診た医師は精神科医らしいです。高血糖、肝障害、腎障害、低栄養状態、CPK上昇、高度貧血、アシドーシス・・・・。悪性症候群も最後に加わっているような気もします。

 もう、誰かをかばうのはやめてほしいし、口裏合わせもやめましょう。すべてを公開するしかないのではないでしょうか。8月22日

 

千葉真一 最後の仕事

 俳優の千葉真一氏が82歳でコロナウイルス感染症で亡くなってしまいました。テレビでの情報では、「体力に自信があるから」とおっしゃり、ワクチンは1回も受けてなかったそうです。キーハンターの時から不死身でしたから、最後まで自分らしい生き方だったのかもしれませんし、最強というイメージから、ワクチンを受けるということが、どうしてもできなかったのかもしれません。その辺はよくわかりませんが。しかし、「数々の戦場を乗り越えてきた千葉真一ですら、コロナにやられてしまった。皆さん、どうかワクチンを打ちましょう」と彼のご子息たちがアピールされたらどうでしょうか? 千葉真一の最後の大きな仕事になるのではないでしょうか。やっぱり、千葉真一は永遠のヒーローだと。キーハンターの中にうまくはまる言葉なりシーンなりがありませんかね。また、有名人向けの接種会場も必要かもしれませんね。  
 そのように話していたら、家族には「年だから」。 ・・・・ともかく最後にもう一度輝いてほしい。輝かせてほしいと思います。8月21日

努力は報われるか2

 テレビのインタビューで内村航平選手が、「努力は報われないと初めて思った」と語っていました。32歳の彼は鉄棒で東京オリンピックに出場。期待されましたが、落下してしまい、予選落ちしてしまいました。3日間はひどく落ち込んだというが、その後、周囲から温かくしてもらい、負けて得られるものがあったようなことを語っています。次の大会は、北九州の出身地の世界体操に出場です。「努力は報われる」と思うのか、「努力は報われない」と思うのか、「別な啓示」を受けるのか興味深いところです。
 100mの桐生選手などのように走ることが速い選手がいたとしましょう。小学校の運動会で断トツのトップ。中学に行っても一番。県大会に出ても優勝などとなります。どの段階で初めて負けるのかわかりませんが、それが全国大会という人もいるでしょうし、初めて負けたのが、オリンピックという人もごく希にいるかもしれません。現実には、どこかで初めて負けるが、それを努力で克服できる段階があり、そして、いつか、いくら努力しても、これ以上いけないということになるのかもしれません。変な考えかもしれませんが、強い選手は、負ける大会に出会うために競技しているともいえましょう。あるいは、いくら努力しても勝てない大会に出会います。だから、たいていの人にとっては、負ける大会が最高の舞台であるということになりましょう。極論すると、負けるために戦うとか、負けるために努力する。挫折するために切磋琢磨する、ということになってしまいます。どこか間違ってますか? 少なくとももっと、前向きな考えができる人でないと、勝負の世界を渡っていくのはとても無理ですね。8月19日
 

タトゥー

 オリンピックの選手。日本人はともかく、外国の方ではタトゥーを入れている人が非常に多かったですね。もう、当たり前という感じがしました。この心理と言うとその分析はとても難しいことになるので、触れませんが、日本の温泉やスーパー銭湯では、まだ、ダメなところが多いようです。それがいいのか、悪いのかはよくわかりませんが、温泉は入れないが、国立競技場や武道館は入れるということになり、国立競技場はや武道館は、スーパー銭湯よりも、ある意味で緩いというのか、寛容というか、先進的ということになってしまいます。一般的には、民間より、国立のが厳しい気がするがそうではないようです。10年たったら、また、事情は変わっているのでしょうね。アパホテルでは、「従来、利用規則によってタトゥーをした方の大浴場への入泉をお断りしていたが、3月19日(火)以降、タトゥーをした宿泊者が入泉を希望される場合、フロントにてポイントタトゥーカバーシール(10㎝×12㎝)を2枚まで無料で提供し、そのカバーシールで、タトゥーを覆うことで入泉可能とする」ということが、この3月からあったようです。ただ、タトゥーを入れている人は、それを誇りにしているのではないか、アイデンティティと密接に結びついているのではないか、あるいは、民族的な アイデンティティ と結びついている場合もあるそうなので、ふさわしくないものとして隠さないといけないというのをどのように理解できるのでしょう? このシールの名称は、「CAXEL」。隠さないといけないのは、善いものより悪いとされているものの方が多いです。やましいから隠すということの方が多い。さまざまな点で難しい問題を含んでいます。モーラステープLに似ているCAXEL。8月15日

努力は報われるのか

 オリンピック。選手は、まれにみる才能ととてつもない努力をして、オリンピックの舞台に立ちます。競争相手も、同じように才能に恵まれ、努力も怠らない。勝ち続けるのは本当にたいへんです。努力は、報われないことが多いでしょう。なぜなら、みんなが欲しいのが金メダル。銀メダルだったために、次のオリンピックで雪辱を果たすという思いの人も話を聞いていると多いようです。そのとき、選手たちは、努力は報われるのだろうかと不安に思わないのでしょうか? 努力すればそれだけの報酬もあると信じられることが生きるためには必要な気がします。努力に意味がないと思ってしまったらどうなるのでしょうか? 昔、どこかの国の拷問で、たくさんのレンガを積ませて何らかのものを作らせ、それができると破壊し、また、隣に同じものを作らせるというのがあると聞いたことがあります。
 ともかく、私のように、それに意味があるのだろうか? と考えてしまうような人間にはまったく向いていないでしょう。次のオリンピックまで、努力は報われるだろうかと考えてばかりで練習もしないでしょうから。こう考えるのは、やはり逃避というものなのでしょうか。考えるより、そこにあるものに手を付けろということでしょうか。

 オリンピックには、いろいろな感動がありますが、感動がどこから生まれるのかと考えてみると、予想と違うことということがあるでしょう。あの選手はこうなるだろうと思い、その本人もそうなると思い込んでいますが、実際は違うことが起きるということ。失敗も成功も予想と違うということが何かを生むのでしょうか。桃田が予選で負けてしまうとか、原沢は決勝でリネールと闘うはずで、5年間リネールに勝つことを考えてきたのに、他の日本人選手が先にリネールに勝ってしまうし、決勝で戦うはずだったのに、なぜか3位決定戦で戦うことになり、しかも、やっぱり5年前と同じように負けてしまうとは。問題はここからであり、どうやって人間は肯定感を取り戻していくのでしょうか。8月1日

小林賢太郎氏の解任

 寛容と不寛容について考えていると、毎日のように、題材に出逢います。小林賢太郎氏は、1998年5月に発売されたVHSの中の9分間の番組企画を題材にしたコントで「ユダヤ人大量惨殺ごっこ」という言葉を使っています。これに誰が最初に気が付いたのかわかりませんが、ユダヤ人大虐殺(ホロコースト)のことを揶揄したとして、サイモン・ウィーゼンタール・センター(ロサンゼルスにあるホロコーストなどに関する言論の監視などを行う)が非難し、開会式の前日に解任になりました。ホロコーストのことと精神科のつながりと言えば、収容所に入れられたが何とか生き延びた、ユダヤ人精神科医ヴィクトル・フランクルです。夜と霧には、写真付きで、収容所の恐ろしい状況が語られています。ナチスは、自分たちを脅かす可能性のある者とか、反対するものに病的に過敏になっていきました。人間がここまでなぜできるのか不思議というしかありません。フランクルは、その後、ロゴテラピーという生きる意味の精神療法のようなものを行いました。日本でいえば、神谷美恵子という精神科医にどこか似ているところがあるように思えます。神谷はらい病施設で働いたことがあったと思います。ともかく、ホロコーストでは、600から800万人のユダヤ人が殺されたのです。一方、サイモン・ウィーゼンタール・センターは、イスラエルのガザ地区への無差別な攻撃については容認していると批判する人もいます。

 ともかく、まず、ヒトラーは過剰に不寛容だったのですが、少しでも許容したら、大変なことになると思っていたのでしょうか。著しく防衛的であるというか、心配性というか。そう簡単に結論できることではありませんが。不寛容の元には、不安、心配、過敏などが潜むこともあるように思います。

 小林氏には、国家的な仕事はさせられないということになったのですが、それは、23年前の9分間のコントの中の発言です。殺人を犯しても罪を償って出所してきている時間を経ています。はからずも、コントの内容は、「番組の企画」であり、そのために「開会式の企画」の仕事からはずされたのです。20年以上、その人にとってのテーマはかわっていないのかもしれません。

 さて、小林氏は、どうしたら罪を償って、また、国家的な仕事を堂々とすることができるのでしょうか。何か、このままだと永遠に復権できない気がします。これもまた、恐ろしい不寛容のように思います。どうしたらいいのでしょう?7月31日

人間関係の機微

 こういうことを言うとこうなるとか、こういうことをするとこうなるということは、子供の時から学びます。もっと具体的に言うと、この人にこう言ったら、この人は好反応するとかです。その予測が常にうまくいけば、そういう能力を完全に身に着ければ、人間関係はうまくいくのかもしれません。例えば、奥さんとの関係です。その琴線に触れるような言動を、常に回避できる能力や機知があれば平穏な日々を送れるかもしれません。そう思っていても、しばしば地雷を踏んでしまうことがあります。不快な思いをさせてしまうとか、傷つけてしまうとかいうことです。予測できるときもあれば、予測を超える場合とか、油断しているとか、いろいろあります。
 かといって、相手に合わせてばかりでいいのかということがあります。自分の目的は達成したい、それを難しい人間関係の中で、どう実現させていくのか、実に難しいところです。譲歩ばかりもしていられない、かといって、恨みを買って、目的が疎外されても困ります。でも、こういうことをすればこうなるという知恵は必要でしょう。それがわかっていても敢えてするということがあったとしても。レ・ミゼラブルの中で、神父は主人公の横暴に対して、驚くべき受容をしたのです。普通では考えられない対応をしました。それによってすべてが変わりました。何かを変えるのには、間違いを指摘する、反省させる、ではなくて、受け入れがたいものへの喜びに満ちた受容なのではないでしょうか。
 では、精神科医はどうすればよいか? 基本的には受容と傾聴とされますね。やはり、クライエントにとってもっとも有効なのは、治療者が正しいと思う意見を言うとか、間違いを指摘するとか、反省させるとかではなくて、受容するということなのでしょう。人はそれぞれ相当の苦労をして、その時点にたどり着いたのですから、それは尊重されるべきでしょう。でも、それが受け入れられないものだったら? 受け入れられないのはなぜでしょう? 7月21日

コロナに関する寛容と不寛容

 日本では、コロナウイルスの新規感染者の最近1週間の平均は、1日当たり3,000人ほどです。死者は14人。一方、イギリスでは、新規感染者4.5万人、死者40人。しかし、人口は、日本1.27億人、イギリス0.68億人であり、これから計算すると、イギリスの新規感染者は、1日当たり 8.4万人、死者は、74.7人。つまり、1日当たりの感染者は28倍、死者は5.3倍。それでも、イギリス政府は、コロナの規制をほとんど撤廃。マスクなしで、飲食もパブも可。 いったいこの違いは何でしょう? 米国でも同様。日本の人口に合わせて計算しても3倍の新規感染者、毎日の死者は日本の8.9倍!実数では30倍近いです。 これでは、米国が日本をコロナ危険区域に指定するなど意味不明。オリンピックもイギリスでやれば、満員の観客で開催できるということになります。イギリスや米国の国民は自国の現状をちゃんと知らされていないのではないかと思ってしまいます。あまり人が死んでも気にしないのでしょうか? 死に関して寛容なのでしょうか? 第2次大戦の死者数は、日本310万人、米国30万人、イギリス40万人。コロナの死者数は、米国61万人(1位)、イギリス12.3万人、日本1.5万人。しかも日本の人口は、世界11位の多さです。米国は戦争には強くてもコロナ感染症には弱いということは明らかです。したがって、人口当たりの死者数や順位はさらにぐっと下がります。オリンピックの日本での開催を諸外国が危惧するなどというのは、まったく根拠がない気がします。諸外国は自国は安全だと国民に思わせているのではないのでしょうか? 7月20日

寛容と不寛容のあいだ

 人はどういうときに寛容になり、どういうときに不寛容であるべきか? そんなのは、自然にまかせておけばいい、という人もいるかもしれません。ほとんどの人は、ふつうそんなことを考えないかもしれません。しかし、怒りが動物のように無制御では困ります。「怒り」などで本を検索すると、ほとんどが、怒りをいかにコントロールするかという内容の本になります。しかし、少数派ですが、怒りの発散を推奨する本もあり、面白いところです。 上述の聖書の場合ですが、イエスは、自分が冒とくされても怒るな、ただし、神の尊厳を傷つける場合は許さないということかもしれません。機会があれば、聞いてみたいところです。イエスにではなく、神父さん、牧師さんに。 しかし、イエスのおひざ元のイスラエル近辺では、不寛容が支配しています。報復が正しい事と信じられています。正義というのは、その立場によってまるで異なります。金次郎やスピノザが言うまでもなく。 池袋の交通事故から丸2年。あれを寛容に受け止めよなどということはできないでしょう。禁固7年求刑。 復讐とかかたき討ち、忠臣蔵とかはどうなんでしょうか。復讐はやめたという人も誰かいましたね。結論としては、もちろん復讐は意味がないでしょうし、間違っています。ただ、民衆は狂喜することも多いですね。それは、それぞれの心の中にある鬱憤を代わりに果たしてくれるような感じがするからでしょうか。そう「倍返し」とかです。7月18日

寛容の続き

 寛容とは何か?新約聖書のマタイによる福音書18章にこういところがあります。「そのとき、ペテロがイエスのもとにきて言った、『兄弟が私に対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか」。イエスは彼に言われた、「わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい」。 それから、イエスは宮にはいられた。そしてみやの庭で売り買いしていた人々をみな追い出し、また両替人の台や、はとを売る者の腰掛をくつがえされた。そして彼らに言われた、「私の家は、祈りの家ととなえられるべきである」と書いてある。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。マタイ21章 それから、彼らはエルサレムにきた。イエスは宮に入り、宮の庭で売り買いしていた人々を追い出しはじめ、両替人の台や、はとを売る者の腰掛をくつがえし、また器ものを持って宮の庭を通り抜けるのをお許しにならなかった。そして、彼らに教えて言われた、「わたいの家は、すべての国民の祈りの家ととなえられるべきである」と書いてあるではないか。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしてしまった」。マルコ11章 イエスはイスラエルに上られた。そして牛、羊、はとを売る者や両替する者などが宮の庭にすわり込んでいるのをごらんになって、なわでむちを造り、羊も牛もみな宮から追い出し、両替人の金を散らし、その台をひっくりかえし、はとを売る人々には「これらのものを持って、ここから出ていけ。わたしの父の家を商売の家とするな」と言われた。 以上からわかることは、イエスは、寛容の重要さを述べて、弟子に対して十分に寛容であることをすすめています。しかし、宮では、「いいですよ。ここは神様の門前ですけれども商売をなさってもいいですよ、どうぞ、どうぞ」とは言いません。ここでは、イエスは寛容ではありません。ある時は寛容で、ある時は寛容でない。どういう場面で人は寛容であるべきで、どういう場面で寛容でないべきか?どうでしょう? 私には答えは分かりませんが、問題提起だけさせていただきます。 さて、私は、このようなことが聖書のどこに書いてあるかなど覚えてはいません。「イエス 怒る」などと検索すればすぐにでてきます。検索とか検索力とかいうのは、世界を動かすようなすごいことと思ってしまいます。若者が得意なんでしょうけれども。本当に検索力は世界を制するか?あっそうか、すでにグーグルは世界を制しているか? しかし、検索がつながっているのは過去です。創造は過去の集積から生まれるのでしょうか?別なような気もします。でも検索は便利です。一般人には。デジタルの圧倒的な優位性は検索にあると思います。「索引」も画期的かつ斬新だったと思いますが。 どういうときに寛容であり、どういう時に寛容でないことが望ましいのか?また、後日考えます。7月16日

寛容と不寛容 

 ゴミ出しの問題から寛容と不寛容の問題について考えてみます。不寛容だなあと思うことの一つに論文の審査があります。投稿してもなかなか採用してもらえません。いかに正しく不寛容であることが良いことであるとされているようにも思います。確かに、不正な論文を編集委員会が通してしまうと後から問題になるということがありますね。だから、厳密な方向にすすんでしまう。失敗しないように。しかし、Nature などでも失敗するのだから大丈夫だと思いますが。本当にこんなことが言えるのかというギリギリの内容の論文の方がやがて大きなことにつながっていくのですから。たぶん、アインシュタインの論文にしても、数学の難問の論文にしても、審査する方がわかるかどうかというぎりぎりの独創性にあるのでしょうから。 精神神経学会誌をはじめ、精神医学の学術雑誌に掲載される原著論文数は、以前と比べてずっと少なくなっているように思います。原著論文のない号が多くなっています。それでは、革新的なことは起こらず、どんどん衰退していくのではないでしょうか。安全ではありますが。こういうのは、何か月前に投稿した論文が却下されたからです。以前、欧米の雑誌に2-3投稿したことがあります。英語もよくできないので全敗ですが、審査してほしい研究者を5人選んでそのメールアドレスを記載しろといわれます。それも苦労しましたが、それぞれの研究者が名前入りで結果をくれ、編集長も名前入りで結果を文章にして返してきます。こちらも明確に理解できます。ところが、日本の少なくとも精神科の学術誌では、だれが審査し、最終的に誰が判定したかが隠されていることがほとんどです。中にはちゃんと公表している学術誌もありますが。精神医学の分野に限らず、良い方向に進んでもらわないとすぐに学問も科学技術も衰退する気がして怖いです。 その他に不寛容なものとして、身近なところでは、精神科で山ほどある意見書とか、診断書とかの書類の審査です。私が長をしている審査機関に私が書類を出すことがありますが、ときどき返戻されてくることがあります。返す人も困るでしょうけど。前任者にはそういうことは1回もなかったように思います。しかし、不思議なもので、審査する側だと、書類の不備を見つけることが重要なのだと思ってくることです。だんだん、不寛容になり、不備を見つけると手柄をとったかのように思ってしまうのです。一番大切なことが何なのか、何のために審査しているのかということに立ち戻らなくてはならないでしょう。 書類を作っているとき、自分は医者なのかということです。そんなことを考えると、書類に掛ける時間を極力減らしたいと思っています。それが正しいのかどうかわかりませんが、診察時間を長くしたいので、患者さんがいないところで、書類だけ書いている時間にはあまり価値がないと思ってしまうのです。もちろん、過去の良く整理されたカルテは、治療に有効かもしれません。ただ、書類というのは、90%の精度のものを作るのに1時間かかるとすると、それを95%の精度にするのに、もう1時間かかってしまいます。98%にするには3時間かかるかもしれません。であると、90%でいいやと思ってしまうわけです。ただ、もちろん正しくは、30分で95%のものを作る技術や環境の整備だということになるのかもしれませんが。 ゴミ出しにもどりますが、地域によって分別の細かさが違っています。ネットで調べると、横浜市は、10分別くらいあるようです。分別を正しくすることによって、効率よくごみ処理ができるのはわかります。しかし、やはり、分別に時間と神経を使いたくないと思ってしまいます。優秀なゴミ分別者になるのでなく、良い医者になった方がよいと思いますので。やがては、自動分別機つきの処理工場などができてほしいです。 ああそうです。大切なことがありました。不寛容な世界に生きにくいのは、精神科の患者さんです。「失敗し だめだと言われる その連鎖」。7月9日

ごみ捨ての失敗

 郵便ポストを通じて、善いものも悪いものも来ます。合格通知とか、不採用通知、ラブレターも未だにあるかもしれません。幸せも不幸も郵便ポストを通じてくる場合があります。他の窓口もたくさんできましたが、なかなかの力を保っています。それにしても、ときどき恐ろしいのが来るものです。最近もとてつもないものをいただきました。たぶん、皆さんはもらったことのないものです。

 イチキュッパは、イチキュッパなのですが、なんと、1980万円です。かごに入れたらたいへん。 図書館ではどうか。都立図書館の蔵書検索ではヒットなし。ありません。国会図書館では、さすがありますね。デジタルですぐ見られるのもあります。すごいです。ただ、漢文なので読めないですね。益軒も漢文で書いていたのでしょうけれども、その訳の多くが松田道雄によります。小児科の医師で、「育児の百科」は今でも店頭に並んでいますね。何十年も前のものが。奇跡的です。7月4日

 どうです。よく見てください。実は、ぼーっとしていて、燃えごみをプラごみの日に出してしまったのです。私の書類とかだけだったので他の家庭ごみはなかったのですが、ごみ袋に私の名前が書いてあるわけではありません。ということは、ごみ袋をどこかで開けられ、中の私の名前と住所の書いてある封筒などを見つけ、この文書を私の家のポストに投函したものと思われます。見られてまずいものはなかったとは思いますが、ごみの中には、チョー恥ずかしいものが入っている危険もあります。それが見られちゃったら、どうにもならないのではないでしょうか。つまり、チョー恥ずかしいものと、住所、名前が書いてある書類などが一緒に入っていたら。 男ならまだいいかもしれませんが、女性だったら、恐ろしくなってしまうのではないでしょうか。ごみを別の日に出されて迷惑なのはわかります。しかし、場合によっては、恥ずかしいやら、恐ろしいやらで、そこに住めなくなってしまうような思いをすることもあるのではないでしょうか。法的には問題ないようなのですが、インパクト強すぎです。さらにこれを回収したのが、カミさんだったので、二重の苦しみとなりました。 最近、寛容の大切さについて学習していましたが、不寛容(失礼)に対する寛容こそ、寛容の中の寛容なのでしょうかなどと考えてしまいます。 話はかわりますが、ヴォルテールも、貝原益軒も、イエス・キリストも寛容を勧めているわけですが、寛容を重ね続けていったらどうなるのでしょうか。結局損することになるのでしょうか? 人が寛容であることを許せない人もいます。「そんな甘いことじゃだめだ!」とか。何が正しいのでしょうか。法が裁けばいいのでしょうか? 7月7日

通鑑綱目(つがんこうもく)

通鑑綱目を探してみました。アマゾンには出品されてないようです。古書の方で検索してみましたら、手に入るようです。大変なボリュームなようで、その一部を売っているところもあります。しかし、そろっているとたいへん高額です。

不完全について

 不完全で思い出しました。貝原益軒の「大和俗訓」の中に、「わが衣食・住居・器物・財用などことごとに、わが心を十分に満ちさせようと思ってはならない。つねに不足のことがあるほうがよい。十分心にかなうと禍がある。『家のいらかをふきて三瓦をおおわず。衣のえりを欠くもこの意なり』と古人はいっている」とあります。意味は分かりますが、この出典がどうしてもわかりません。図書館でことわざ辞典などをみてもわからないし、ネットで検索してもわかりません。古人はだれでしょう。今、思いつきましたが、益軒は自分が勉強したことを「初学知要」という本に残しています。読んでないけど買ってはいます。今度探してみましょう。 ところで、「大和俗訓」は、二宮金次郎も感銘を受けた本です。金次郎の主君の大久保忠真もこの本さえあればと言ってたと思います。ところで、益軒は、自分が最も良い本だと思うのは、朱子の通鑑綱目(つがんこうもく)だと言っています。確か大和俗訓の中で。それを聞くと、読んでみたくなりますが、残念ながらそう簡単には手に入らなそうです。7月3日

反省させると

 病識がなくても治療はできるから不思議です。精神科の治療というのは、自分が精神病だと正しく認識して、きちんと病気を認識して治療を受け入れるということは困難であり、それをいつも目指すべきではないように思います。不十分なままでもそれはできるのでhないでしょうか。統合失調症だということがどうしても受け入れられない気持ちはわかります。それはそれでもいいのではないでしょうか。それをわからせるなどというのは無理があるように思います。 「反省させると犯罪者になります」という本がありましたが、なるほどと思いました。人間は、自分の非を受け入れるものではないでしょう。本当に反省するというのは、なかなかできないのではないですか。弊害の方が大きいように思います。わからなくても何とかなる、認識が異なっていても最低限何とかなるのではないでしょうか。そういう意味での寛容はやはり大切なようにも思います。不完全なもの、足りないものが好きです。6月29日

はじめに

 いろいろな偉人のうつ病というか、精神的問題を調べてきて分かったことは何か? 一つ思いついたのは、偉人は感じやすすぎたり、不安になりやすかったり、気持ちが暗くなりやすかったり、対人交流が下手だったりという欠陥を生来持っていて、生活全体が低調の方向に向かってしまいますが、それを打開しようとして、いろいろな対処を求めていくということがあるのではないでしょうか。それは、生き方であるとか、生きがいの追求であったり、華々しい成功とか創造、発見、発明、自分を救う哲学や芸術であったり、道徳や修養、宗教的な覚醒であったりするのではないでしょうか。 偉人たちの幼少期や青年期にはその欠陥や欠損あるいは不自由などがしばしばみられるように思います。つまり、偉人の偉人たる仕事は、対処であり、修復であり、補うものであるということかもしれません。そうすると、補って余りある場合や、努力したにもかかわらず、闇が深すぎて追いつけなかった、負けてしまったということも当然あるでしょう。①欠陥と②強い生命力ないし向上への意欲が必要な条件なのかもしれません。 「欠陥」ですが、それは、うつ病とかの精神疾患などに親和性がある事態といえるかもしれません。欠陥が重篤であるほど、それを補うものも大きくなければなりませんし、場合によっては、長い年月に渡って、格闘し続けることもあります。あるいは、ゲーテのように、あるときは自信に満ち、生産的で、ある時は非生産的で、翻弄されつつも、偉大な仕事をなすということもありましょう。対応し続け、素晴らしい成果を挙げたのに、最後にはその闇に負けてしまうという形になったトルストイとかもいます。6月28日

 

 

 

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