精神科医の視点

人間関係の機微

 こういうことを言うとこうなるとか、こういうことをするとこうなるということは、子供の時から学びます。もっと具体的に言うと、この人にこう言ったら、この人は好反応するとかです。その予測が常にうまくいけば、そういう能力を完全に身に着ければ、人間関係はうまくいくのかもしれません。例えば、奥さんとの関係です。その琴線に触れるような言動を、常に回避できる能力や機知があれば平穏な日々を送れるかもしれません。そう思っていても、しばしば地雷を踏んでしまうことがあります。不快な思いをさせてしまうとか、傷つけてしまうとかいうことです。予測できるときもあれば、予測を超える場合とか、油断しているとか、いろいろあります。
 かといって、相手に合わせてばかりでいいのかということがあります。自分の目的は達成したい、それを難しい人間関係の中で、どう実現させていくのか、実に難しいところです。譲歩ばかりもしていられない、かといって、恨みを買って、目的が疎外されても困ります。でも、こういうことをすればこうなるという知恵は必要でしょう。それがわかっていても敢えてするということがあったとしても。レ・ミゼラブルの中で、神父は主人公の横暴に対して、驚くべき受容をしたのです。普通では考えられない対応をしました。それによってすべてが変わりました。何かを変えるのには、間違いを指摘する、反省させる、ではなくて、受け入れがたいものへの喜びに満ちた受容なのではないでしょうか。
 では、精神科医はどうすればよいか? 基本的には受容と傾聴とされますね。やはり、クライエントにとってもっとも有効なのは、治療者が正しいと思う意見を言うとか、間違いを指摘するとか、反省させるとかではなくて、受容するということなのでしょう。人はそれぞれ相当の苦労をして、その時点にたどり着いたのですから、それは尊重されるべきでしょう。でも、それが受け入れられないものだったら? 受け入れられないのはなぜでしょう? 7月21日

コロナに関する寛容と不寛容

 日本では、コロナウイルスの新規感染者の最近1週間の平均は、1日当たり3,000人ほどです。死者は14人。一方、イギリスでは、新規感染者4.5万人、死者40人。しかし、人口は、日本1.27億人、イギリス0.68億人であり、これから計算すると、イギリスの新規感染者は、1日当たり 8.4万人、死者は、74.7人。つまり、1日当たりの感染者は28倍、死者は5.3倍。それでも、イギリス政府は、コロナの規制をほとんど撤廃。マスクなしで、飲食もパブも可。 いったいこの違いは何でしょう? 米国でも同様。日本の人口に合わせて計算しても3倍の新規感染者、毎日の死者は日本の8.9倍!実数では30倍近いです。 これでは、米国が日本をコロナ危険区域に指定するなど意味不明。オリンピックもイギリスでやれば、満員の観客で開催できるということになります。イギリスや米国の国民は自国の現状をちゃんと知らされていないのではないかと思ってしまいます。あまり人が死んでも気にしないのでしょうか? 死に関して寛容なのでしょうか? 第2次大戦の死者数は、日本310万人、米国30万人、イギリス40万人。コロナの死者数は、米国61万人(1位)、イギリス12.3万人、日本1.5万人。しかも日本の人口は、世界11位の多さです。米国は戦争には強くてもコロナ感染症には弱いということは明らかです。したがって、人口当たりの死者数や順位はさらにぐっと下がります。オリンピックの日本での開催を諸外国が危惧するなどというのは、まったく根拠がない気がします。諸外国は自国は安全だと国民に思わせているのではないのでしょうか? 7月20日

寛容と不寛容のあいだ

 人はどういうときに寛容になり、どういうときに不寛容であるべきか? そんなのは、自然にまかせておけばいい、という人もいるかもしれません。ほとんどの人は、ふつうそんなことを考えないかもしれません。しかし、怒りが動物のように無制御では困ります。「怒り」などで本を検索すると、ほとんどが、怒りをいかにコントロールするかという内容の本になります。しかし、少数派ですが、怒りの発散を推奨する本もあり、面白いところです。 上述の聖書の場合ですが、イエスは、自分が冒とくされても怒るな、ただし、神の尊厳を傷つける場合は許さないということかもしれません。機会があれば、聞いてみたいところです。イエスにではなく、神父さん、牧師さんに。 しかし、イエスのおひざ元のイスラエル近辺では、不寛容が支配しています。報復が正しい事と信じられています。正義というのは、その立場によってまるで異なります。金次郎やスピノザが言うまでもなく。 池袋の交通事故から丸2年。あれを寛容に受け止めよなどということはできないでしょう。禁固7年求刑。 復讐とかかたき討ち、忠臣蔵とかはどうなんでしょうか。復讐はやめたという人も誰かいましたね。結論としては、もちろん復讐は意味がないでしょうし、間違っています。ただ、民衆は狂喜することも多いですね。それは、それぞれの心の中にある鬱憤を代わりに果たしてくれるような感じがするからでしょうか。そう「倍返し」とかです。7月18日

寛容の続き

 寛容とは何か?新約聖書のマタイによる福音書18章にこういところがあります。「そのとき、ペテロがイエスのもとにきて言った、『兄弟が私に対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか」。イエスは彼に言われた、「わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい」。 それから、イエスは宮にはいられた。そしてみやの庭で売り買いしていた人々をみな追い出し、また両替人の台や、はとを売る者の腰掛をくつがえされた。そして彼らに言われた、「私の家は、祈りの家ととなえられるべきである」と書いてある。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。マタイ21章 それから、彼らはエルサレムにきた。イエスは宮に入り、宮の庭で売り買いしていた人々を追い出しはじめ、両替人の台や、はとを売る者の腰掛をくつがえし、また器ものを持って宮の庭を通り抜けるのをお許しにならなかった。そして、彼らに教えて言われた、「わたいの家は、すべての国民の祈りの家ととなえられるべきである」と書いてあるではないか。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしてしまった」。マルコ11章 イエスはイスラエルに上られた。そして牛、羊、はとを売る者や両替する者などが宮の庭にすわり込んでいるのをごらんになって、なわでむちを造り、羊も牛もみな宮から追い出し、両替人の金を散らし、その台をひっくりかえし、はとを売る人々には「これらのものを持って、ここから出ていけ。わたしの父の家を商売の家とするな」と言われた。 以上からわかることは、イエスは、寛容の重要さを述べて、弟子に対して十分に寛容であることをすすめています。しかし、宮では、「いいですよ。ここは神様の門前ですけれども商売をなさってもいいですよ、どうぞ、どうぞ」とは言いません。ここでは、イエスは寛容ではありません。ある時は寛容で、ある時は寛容でない。どういう場面で人は寛容であるべきで、どういう場面で寛容でないべきか?どうでしょう? 私には答えは分かりませんが、問題提起だけさせていただきます。 さて、私は、このようなことが聖書のどこに書いてあるかなど覚えてはいません。「イエス 怒る」などと検索すればすぐにでてきます。検索とか検索力とかいうのは、世界を動かすようなすごいことと思ってしまいます。若者が得意なんでしょうけれども。本当に検索力は世界を制するか?あっそうか、すでにグーグルは世界を制しているか? しかし、検索がつながっているのは過去です。創造は過去の集積から生まれるのでしょうか?別なような気もします。でも検索は便利です。一般人には。デジタルの圧倒的な優位性は検索にあると思います。「索引」も画期的かつ斬新だったと思いますが。 どういうときに寛容であり、どういう時に寛容でないことが望ましいのか?また、後日考えます。7月16日

寛容と不寛容 

 ゴミ出しの問題から寛容と不寛容の問題について考えてみます。不寛容だなあと思うことの一つに論文の審査があります。投稿してもなかなか採用してもらえません。いかに正しく不寛容であることが良いことであるとされているようにも思います。確かに、不正な論文を編集委員会が通してしまうと後から問題になるということがありますね。だから、厳密な方向にすすんでしまう。失敗しないように。しかし、Nature などでも失敗するのだから大丈夫だと思いますが。本当にこんなことが言えるのかというギリギリの内容の論文の方がやがて大きなことにつながっていくのですから。たぶん、アインシュタインの論文にしても、数学の難問の論文にしても、審査する方がわかるかどうかというぎりぎりの独創性にあるのでしょうから。 精神神経学会誌をはじめ、精神医学の学術雑誌に掲載される原著論文数は、以前と比べてずっと少なくなっているように思います。原著論文のない号が多くなっています。それでは、革新的なことは起こらず、どんどん衰退していくのではないでしょうか。安全ではありますが。こういうのは、何か月前に投稿した論文が却下されたからです。以前、欧米の雑誌に2-3投稿したことがあります。英語もよくできないので全敗ですが、審査してほしい研究者を5人選んでそのメールアドレスを記載しろといわれます。それも苦労しましたが、それぞれの研究者が名前入りで結果をくれ、編集長も名前入りで結果を文章にして返してきます。こちらも明確に理解できます。ところが、日本の少なくとも精神科の学術誌では、だれが審査し、最終的に誰が判定したかが隠されていることがほとんどです。中にはちゃんと公表している学術誌もありますが。精神医学の分野に限らず、良い方向に進んでもらわないとすぐに学問も科学技術も衰退する気がして怖いです。 その他に不寛容なものとして、身近なところでは、精神科で山ほどある意見書とか、診断書とかの書類の審査です。私が長をしている審査機関に私が書類を出すことがありますが、ときどき返戻されてくることがあります。返す人も困るでしょうけど。前任者にはそういうことは1回もなかったように思います。しかし、不思議なもので、審査する側だと、書類の不備を見つけることが重要なのだと思ってくることです。だんだん、不寛容になり、不備を見つけると手柄をとったかのように思ってしまうのです。一番大切なことが何なのか、何のために審査しているのかということに立ち戻らなくてはならないでしょう。 書類を作っているとき、自分は医者なのかということです。そんなことを考えると、書類に掛ける時間を極力減らしたいと思っています。それが正しいのかどうかわかりませんが、診察時間を長くしたいので、患者さんがいないところで、書類だけ書いている時間にはあまり価値がないと思ってしまうのです。もちろん、過去の良く整理されたカルテは、治療に有効かもしれません。ただ、書類というのは、90%の精度のものを作るのに1時間かかるとすると、それを95%の精度にするのに、もう1時間かかってしまいます。98%にするには3時間かかるかもしれません。であると、90%でいいやと思ってしまうわけです。ただ、もちろん正しくは、30分で95%のものを作る技術や環境の整備だということになるのかもしれませんが。 ゴミ出しにもどりますが、地域によって分別の細かさが違っています。ネットで調べると、横浜市は、10分別くらいあるようです。分別を正しくすることによって、効率よくごみ処理ができるのはわかります。しかし、やはり、分別に時間と神経を使いたくないと思ってしまいます。優秀なゴミ分別者になるのでなく、良い医者になった方がよいと思いますので。やがては、自動分別機つきの処理工場などができてほしいです。 ああそうです。大切なことがありました。不寛容な世界に生きにくいのは、精神科の患者さんです。「失敗し だめだと言われる その連鎖」。7月9日

ごみ捨ての失敗

 郵便ポストを通じて、善いものも悪いものも来ます。合格通知とか、不採用通知、ラブレターも未だにあるかもしれません。幸せも不幸も郵便ポストを通じてくる場合があります。他の窓口もたくさんできましたが、なかなかの力を保っています。それにしても、ときどき恐ろしいのが来るものです。最近もとてつもないものをいただきました。たぶん、皆さんはもらったことのないものです。

 イチキュッパは、イチキュッパなのですが、なんと、1980万円です。かごに入れたらたいへん。 図書館ではどうか。都立図書館の蔵書検索ではヒットなし。ありません。国会図書館では、さすがありますね。デジタルですぐ見られるのもあります。すごいです。ただ、漢文なので読めないですね。益軒も漢文で書いていたのでしょうけれども、その訳の多くが松田道雄によります。小児科の医師で、「育児の百科」は今でも店頭に並んでいますね。何十年も前のものが。奇跡的です。7月4日

 どうです。よく見てください。実は、ぼーっとしていて、燃えごみをプラごみの日に出してしまったのです。私の書類とかだけだったので他の家庭ごみはなかったのですが、ごみ袋に私の名前が書いてあるわけではありません。ということは、ごみ袋をどこかで開けられ、中の私の名前と住所の書いてある封筒などを見つけ、この文書を私の家のポストに投函したものと思われます。見られてまずいものはなかったとは思いますが、ごみの中には、チョー恥ずかしいものが入っている危険もあります。それが見られちゃったら、どうにもならないのではないでしょうか。つまり、チョー恥ずかしいものと、住所、名前が書いてある書類などが一緒に入っていたら。 男ならまだいいかもしれませんが、女性だったら、恐ろしくなってしまうのではないでしょうか。ごみを別の日に出されて迷惑なのはわかります。しかし、場合によっては、恥ずかしいやら、恐ろしいやらで、そこに住めなくなってしまうような思いをすることもあるのではないでしょうか。法的には問題ないようなのですが、インパクト強すぎです。さらにこれを回収したのが、カミさんだったので、二重の苦しみとなりました。 最近、寛容の大切さについて学習していましたが、不寛容(失礼)に対する寛容こそ、寛容の中の寛容なのでしょうかなどと考えてしまいます。 話はかわりますが、ヴォルテールも、貝原益軒も、イエス・キリストも寛容を勧めているわけですが、寛容を重ね続けていったらどうなるのでしょうか。結局損することになるのでしょうか? 人が寛容であることを許せない人もいます。「そんな甘いことじゃだめだ!」とか。何が正しいのでしょうか。法が裁けばいいのでしょうか? 7月7日

通鑑綱目(つがんこうもく)

通鑑綱目を探してみました。アマゾンには出品されてないようです。古書の方で検索してみましたら、手に入るようです。大変なボリュームなようで、その一部を売っているところもあります。しかし、そろっているとたいへん高額です。

不完全について

 不完全で思い出しました。貝原益軒の「大和俗訓」の中に、「わが衣食・住居・器物・財用などことごとに、わが心を十分に満ちさせようと思ってはならない。つねに不足のことがあるほうがよい。十分心にかなうと禍がある。『家のいらかをふきて三瓦をおおわず。衣のえりを欠くもこの意なり』と古人はいっている」とあります。意味は分かりますが、この出典がどうしてもわかりません。図書館でことわざ辞典などをみてもわからないし、ネットで検索してもわかりません。古人はだれでしょう。今、思いつきましたが、益軒は自分が勉強したことを「初学知要」という本に残しています。読んでないけど買ってはいます。今度探してみましょう。 ところで、「大和俗訓」は、二宮金次郎も感銘を受けた本です。金次郎の主君の大久保忠真もこの本さえあればと言ってたと思います。ところで、益軒は、自分が最も良い本だと思うのは、朱子の通鑑綱目(つがんこうもく)だと言っています。確か大和俗訓の中で。それを聞くと、読んでみたくなりますが、残念ながらそう簡単には手に入らなそうです。7月3日

反省させると

 病識がなくても治療はできるから不思議です。精神科の治療というのは、自分が精神病だと正しく認識して、きちんと病気を認識して治療を受け入れるということは困難であり、それをいつも目指すべきではないように思います。不十分なままでもそれはできるのでhないでしょうか。統合失調症だということがどうしても受け入れられない気持ちはわかります。それはそれでもいいのではないでしょうか。それをわからせるなどというのは無理があるように思います。 「反省させると犯罪者になります」という本がありましたが、なるほどと思いました。人間は、自分の非を受け入れるものではないでしょう。本当に反省するというのは、なかなかできないのではないですか。弊害の方が大きいように思います。わからなくても何とかなる、認識が異なっていても最低限何とかなるのではないでしょうか。そういう意味での寛容はやはり大切なようにも思います。不完全なもの、足りないものが好きです。6月29日

はじめに

 いろいろな偉人のうつ病というか、精神的問題を調べてきて分かったことは何か? 一つ思いついたのは、偉人は感じやすすぎたり、不安になりやすかったり、気持ちが暗くなりやすかったり、対人交流が下手だったりという欠陥を生来持っていて、生活全体が低調の方向に向かってしまいますが、それを打開しようとして、いろいろな対処を求めていくということがあるのではないでしょうか。それは、生き方であるとか、生きがいの追求であったり、華々しい成功とか創造、発見、発明、自分を救う哲学や芸術であったり、道徳や修養、宗教的な覚醒であったりするのではないでしょうか。 偉人たちの幼少期や青年期にはその欠陥や欠損あるいは不自由などがしばしばみられるように思います。つまり、偉人の偉人たる仕事は、対処であり、修復であり、補うものであるということかもしれません。そうすると、補って余りある場合や、努力したにもかかわらず、闇が深すぎて追いつけなかった、負けてしまったということも当然あるでしょう。①欠陥と②強い生命力ないし向上への意欲が必要な条件なのかもしれません。 「欠陥」ですが、それは、うつ病とかの精神疾患などに親和性がある事態といえるかもしれません。欠陥が重篤であるほど、それを補うものも大きくなければなりませんし、場合によっては、長い年月に渡って、格闘し続けることもあります。あるいは、ゲーテのように、あるときは自信に満ち、生産的で、ある時は非生産的で、翻弄されつつも、偉大な仕事をなすということもありましょう。対応し続け、素晴らしい成果を挙げたのに、最後にはその闇に負けてしまうという形になったトルストイとかもいます。6月28日

 

 

 

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