承認されるということ 概要 

 人から承認されるということが、あるいは承認されないことが人に与える影響は極めて大きい。承認をいろいろな角度から考えてみたい。

 まず、承認の方法である。承認する人はどういう形で、他者を承認するのか。生まれたときからみてみる。まず、生まれた赤ん坊は、多くの人にほとんど無条件に承認される。喜ばれる。笑顔が送られる。承認は、赤ん坊本人だけでなく、産んだ母親にも向けられ、大事業をしたことを称賛される。

 承認という意味だが、ここでは、肯定的に関心がもたれるということである。

 無力な赤ん坊が生きていくためには、親から承認されなければ生きていけない。不思議なことに、承認されやすい愛らしさを人間に限らず、赤ん坊や幼児は持っている。そういう特性を持ってなければ人類は滅亡したかもしれない。

 さて、小学生になり、中学生になると、承認という点で新たな問題が出てくる。他者との比較競争である。あらゆる分野での評価。運動能力もそうだが、典型的なのは学習能力だろう。学業成績が良ければ、周囲から評価される、承認されるのが普通である。親からも承認されるが、級友からも承認されていじめも受けにくいかもしれない。

 しかし、競争は長い間終わらないし、いつも成績が良いわけではない。そして、あらゆる競争には、ただ一人を除いて、必ず上がいるという現実がある。

 ここで問題なのは、子供の時には、無条件で肯定されていたものが、条件付きの肯定に変わってくるところだ。何かがないと承認されなくなってくる。顔色をうかがわず、自分の中に尺度を持っている子供はいいのかもしれない。しかし、普通は周囲から受け入れられて安心するのが普通である。

 無条件の肯定的関心というのはどこかで聞いたことがある。心理学者のカール・ロジャースの来談者中心療法だ。人は無条件の肯定的関心を向けられることによって、癒され、回復し、苦しみから解放される。そういう法則に基づいた治療である。承認には、そういう力がある

 しかし、実際の社会では、運動能力もたいしたことはなく、学業成績も上がらない、とくに何も人に誇るものがないというのが普通だろう。競争というのは、世界で2位になっても悔しくて泣くというような不条理なものだ。不思議というほかはないし、それでは誰も幸福になんかなれるわけはないと思う。金メダルととっても次を狙うというのはどういうことだろう。それをやめたら何もやることがないのかもしれない。

 金メダルをとったときの外部からの承認に比較できるほど疑いのないものはないだろう。疑うことのできない承認であり、自己肯定感であろう。自分が優れていることは明らかであるという確信である。だからやめられないのか。

 少年期の承認は、親から、先生から、級友からなどがあるだろう。今なら学習塾からの承認とか、運動クラブからの承認なんていうのもある。

 何もかも取り柄がないと思われていた少年が、ある時、描いた絵をほめてくれた先生がいた。そのことで、決定的な影響を受けた子供もいる。心の中に、永遠の光が灯ったように感じる。それだけ、承認されるということは大切なのかもしれない。また、承認に飢えている青年も、中年もいくらでもいる。案外、地位の高い人も承認を欲しているらしい。というのは、すごく頑張っているのは、人並み以上に承認の証をもとめているからということもある。承認に飢えているのだ。何か欠落している部分を必死に補おうとしているのだ。良くも悪くもない。 

 なんの承認もなしに自分の思った道を進むことができる人は珍しいだろう。中には、普通の人の承認なんてどうでもいい、神の承認さえあればいいと思っている人もいる。でも、多くはない。生まれ持った何かがない限り難しいだろう。芸術家などはそういう面もあるかもしれない。一般大衆は少しも理解できない。理解できるのは、未来の人だけということもある。

 承認を求めるとき、必ず必要なのが、承認してくれる人や団体である。それは、自分にとって自分の価値を決めてしまう権威にもなりうる。オリンピック委員会、ノーベル賞、直木賞・・・。異常に友達からの評価を気にする人もいる。

 評価の時代になった。何もかも評価できる。飲食店もサービス業も。病院も。お笑いも。総理大臣も。評価をするのは特別の資格のある人ではなく、普通の人だ。評価する側の方が、一段高い位置にいる。評価するのが主な仕事だという人はいい立場にいる。ようやく勝ち得た立場だ。 

 しかし、現代は評価する側にすぐになれるようになった。 SNSでの、承認、非承認は簡単だ。昔と違って、経験や能力がなくてもできる。「いいね」もあるが、批判も大変なものだ。トラブルを引き起こしやすく、ひどく傷ついて立ち直れないこともある。私がこうやって書いているのも高評価の承認を得たいという無意識の意図があることは間違いない。それが、徐々に意識化して高評価を得ることだけが、行為の目的になると大変だ。さまざまな問題、不健康さを引き起こすだろう。

 また、SNSでは、評価をした人が実際誰だかわからない場合もたくさんある。わからないままに、いろいろと批判してストレス解消?している人もたくさんいるはずだ。

 承認の形に賞を与えるという方法がある。表彰することは、二宮金次郎も有効利用した。賞を与えるというのは、個人や団体などに対して特別な高評価を行い、それだけではない、それを多くの人に知らしめるという意図がある公開するということだ。

 ひそかにノーベル賞を送るなどというのはない。公開される。映画の将だってそうだし、アカデミー賞でもそうだ。賞を授与するときはそれが同時に公開されるというのが普通だ。ワンセットとなっている。野球のMVPでも大相撲の優勝でも。オリンピックの金メダルでも。公開の儀式とか、証明書つまり、表彰状とかメダルとか、証拠が与えられる。評価は公開されて意味がある。SNSでもそうだ。

 密かに与えられる賞は、あるのか? 国の叙勲も新聞にまで公開される。いや、受賞が秘密にされるということはほとんどない。あるある、思い出した。禅の免許皆伝だ。中国から日本につながってくる禅だが、代々、一人から一人の弟子に継がれる。正統の継承者は、修行を長く努めた修行者でなく、後から入門して短時間で本質を極めてしまい開眼した人ひとりに継がれる。たしか、何代目かの禅の教祖でもそういうことがあり、嫉妬やそれに伴う問題を避けるために公開しなかったことがあった。もちろん、証拠は密かにもたせるとうことだ。そして、隠れて遠くへ行くようにしたのだ。

 公開ということについてだが、小さな賞だとその集団の中でしか公開されない。公開される範囲がどれだけ大きいかということと賞の価値は関係するものだといえるものかもしれない。日曜日の親戚ゴルフの会で10人出席したとしよう。10人でも、賞があるし賞に伴って小さな賞品まである。でも、優勝はその場でしか公開されない。家に帰って、とうちゃん、今日、親戚ゴルフで優勝したんだと言わない限り、家族も知らない。

承認や評価の属性をまとめると、以下のようになる。

承認や評価をする人

  • 親戚
  • 友人
  • 近所の人
  • 先生や師
  • 先輩
  • 後輩
  • 審査員
  • 審判団
  • ネット上の知り合い(SNS)
  • 見ず知らずの他人(SNS)
  • 公務員
  • 自分(自分で自分をほめるなど)
  • 神とか天

 

承認や評価の手段

  • 表情
  • 言葉
  • 拍手
  • 手紙
  • 「いいね」SNS
  • メダル
  • 表彰状
  • トロフィー
  • チャンピオンベルト
  • 副賞
  • 握手やハグ

公開の様式

  • 表彰式や授与式
  • 報告会
  • マスコミ
  • SNS
  • 祝賀会
  • 謝罪会見
  • 代理人
  • 法廷

承認や評価の危機

  • 競争
  • 比較
  • 差別
  • 嫉妬
  • 取引

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