偉人のうつ病 トルストイ その4 思想について

 トルストイは、67歳の時に、「3つのたとえ話」で自身の思想について語っています。(八島雅彦著「トルストイ」清水書院)から抜粋してみます。

 第1のたとえ話

 いい牧草地に雑草が茂ってしまいました。たまたま牧草地を訪ねてきた善良で知恵のある人が、雑草は刈るとますます増えるので、根っこごと引き抜かないといけないと言います。しかし、助言はなぜか無視されて、雑草は刈られ続けてどんどんと増えていきました。そればかりか、「雑草は顔を出したらすぐに刈る」というのが神聖な言い伝えのようになってしまいました。最近になってある人が、過去の助言を思い出し、牧草地の持ち主たちに雑草は引っこ抜くべきではないかと訴えましたが、牧場主たちはその人の注意に腹を立て、頭のおかしいうぬぼれやだと言ったり、悪意のある偽の中傷者だと言ったりして、みんなが彼をののしり、笑い者にするようになってしまい、正しく処理されないまま、雑草は増えていきました。

 同じように、キリストの教えに従って悪をなくすためには、暴力で悪に対抗するのではなく、愛によってそれを根こそぎにしなければならないのだという私(トルストイ)の言葉に対しても、悪に対する無抵抗の教えは正しくない、ばかげた、罰当たりで有害な教えだとみなされ、人々は悪をなくすふりをしながら、平気で悪をはびこらせ増大させ続けているのだと言います。

牧草と雑草

 ちょうど今、2020年9月に「1000倍返しだ!」というドラマが流行っていますが、これがわが国で人気になっているというのは恐ろしい事のように思えます。トルストイはどう思うのでしょうか。

第2のたとえ話

 麦粉やバターや牛乳を商っている人たちがいました。この人たちは、できるだけ早く金持ちになりたいと、安くて有害な混ぜ物を自分たちの商品に入れるようになりました。麦粉にはぬかと石灰をふりかけ、バターにはマーガリンを混ぜ、牛乳には水とチョークと入れました。都市にはそうした混ぜ物をした商品しかなかったので、消費者たちは買い続け、味が悪いのと不健康なのは、自分の料理が下手なせいだと思っていました。こんな状態が続いて都市の住民は苦しんだが、誰一人として不満を言いませんでした。

 ※実際マーガリンに含まれるトランス脂肪酸は、悪玉コレステロールを増加させ、心血管リスクを上昇させ、認知機能の悪化にも関連すると近年一般に言われています。もちろん、トルストイの時代にはわからないことでしたが。

 あるとき、自給自足していた主婦がたまたま町にやってきました。この主婦は売っている食材でパンを焼き料理を作り始めましたが、パンは焼きあがらないでバラバラになり、マーガリンを使ったクッキーはおいしくできず、牛乳をしばらく置いてもクリームはできませんでした。

 主婦はすぐに食材が良くないのだと気づき、調べてみると不純物が見つかりました。彼女は、大声で商人たちを非難して良い商品を置くか、店を閉じるように言いました。商人たちは、なんだかんだいって対抗し、買い物客たちに「このおかみさんは頭がどうかしているんです。この人の言うことに耳を貸してはいけません」と言います。すると、群衆は女の人をののしり始めました。彼女は、なくてはならない食料を奪おうとしているのだと決めつけられてしまったのです。

 これと同じことが自分(トルストイ)にも起こりました。現代の知的市場で商われている科学や芸術がマーガリンの入ったものか、あるいは、真の科学や芸術には無縁の物質の混ぜ物であって、私にも私の親しい人にも食べられないものであり有害であると私が言ったところ、人々は声を上げてびっくりして、そういう高尚なものとの付き合い方を知らないからそうなるのだと私に諭しました

 精神的な害毒は、肉体的な害毒より危険なのでにせものと有害なものはさっさと捨てなければならないと私が注意しても、「あいつは頭が狂っているのです!生活の糧である芸術と科学をなくそうとしているのです。彼の言うことに耳を貸してはいけません。さあさあいらっしゃいませ。うちには最新の舶来品が置いてございます」。

稲盛和夫が、京セラが軌道に乗ったところで、第二電電を創ろうと役員会で提言したのですが、NTTに対抗できるわけがないと役員たちはみな考え、稲盛に同調したのはわずかに1人だったと記憶しています。(正確には自伝等お読みください)トルストイにしても稲盛にしても彼らしか分からない常識を超えた直観のようなものがあるのかもしれません。それはうまく説明することもできない類のものなのかもしれません。

天にしたがう

第3のたとえ話

 旅人たちが道に迷ってしまいました。沼地、茂みに閉ざされた道を行く羽目になったのです。旅人たちは2つのグループに分かれました。1つのグループは自分たちは本来の道からはずれていないとして、まっすぐ行くことにしました。もう一つのグループは、方向が明らかに間違っているとして、道を探すためにあらゆる方向にできるだけ速く前進することに決めました。

 一人の人が、どちらにせよ、その前に立ち止まって、自分の置かれている状況をよくよく考えてから、そのあとにいずれかに着手すべきであると言いました。ところが旅人たちは興奮し、恐怖心をかき消したかったので、この意見は2つのグループから非難と嘲笑で迎えられました。「そんなのは弱虫や臆病者や怠け者の忠告だ」、「われわれに力が与えられるのは、戦って障害を克服するためであり屈服からではない」。立ち止まって正気に返る必要があることを説いてもだれも耳を貸しませんでした。労働問題という暗い森や諸国民のはてしない軍拡という底なし沼へと迷い込ませた道は、われわれがとるべき道とは言えないのではないか、立ち止まって、われわれの向かっているのが原理原則にしたがっているのか考えるべきでないのかといいます。しかし、「彼の言うことには耳を貸すな。優柔不断ではだめだ。ともかく前進だ」と旅人たちは主張し続けます。「原理原則」については稲盛も述べています。

 立ち止まってはじめて、われわれは自分たちの状況をいくらかでも理解できるのだし、人類全体の幸福に到達するために進むべき方向を見つけることができることは明らかなのではないだろうかとトルストイは言います。

門を開く

最後のメッセージ

 78歳-79歳の時、トルストイは、若者に対してメッセージを残しています。八島による記載を簡潔に記載します。

 15歳の時、自分の人生の主な目的は、福音書的な意味で、つまり献身と愛の意味において良くなることであると深く感じたと言います。しかし、実際は長続きせず、自分自身を信じないで、周囲のあらゆる人によって吹き込まれていた説得力のある、自信満々の勝ち誇ったような、人間のあらゆる英知を信じ、有名になる、学識を身に着ける、栄光に包まれる、裕福になる、有力者になるなど、人々がいいとみなしている者になるという、成功の願望にとって代わられてしまったと言います。

 しかし、75歳になって、最初のことが、あらゆる人間の努力すべき唯一の合理的な目的でありうるしまたそうであらねばならないことを理解したといいます。「自分たちの人生がどうようなものになりうるかなどと夢想するのでなく、現存する社会生活に自分ちの行動をできるだけ一致させるように努め、この社会に役立つ一員となるべく努めるべきだということだったのだ」などと語るような人々を信じてはいけないし、「社会の改造のために道徳的に反するような手段でも用いるべきだ」というようなことも信じてはならないと警鐘を鳴らすのです。

 みなさんの心の中に善と真理を実現することは、単に不可能でないばかりか、みなさんの人生もあらゆる人々の人生も、人生はすべてただそれだけのためにあるのであり、一人一人の人間におけるその実現こそが社会のより良い改造へと導くばかりか、人類に定められていて、一人一人の個人的な努力によってのみ実現される、人類のすべての幸福へと導くものなのです。われわれに生命を与えた、その神の欲するものになることであり、我々の中に埋め込まれている、神に似た根源を自らのうちに開示して、百姓が言うように神に従って生きるということなのです。自分自身を信じ、すべての力を自分自身のなかに神を現すということに向けて生きることです。

 トルストイは、家族、団体、国家、人類など全体の一部にしかならないものへの奉仕は善を生まず、誤りであるといいます。神に奉仕せよと言います。では、神への奉仕とは何か。それは価値の尺度を神だけに求め、神の前によりよい自分を築き、自分の中に愛を発現していくことにほかならないといいます。八島雅彦は、これがトルストイの最後のメッセージであると語っています。

トルストイという偉人の中に永遠の青年というものが感じられます。82歳での家出も青年だからできることかもしれません。

柳宗悦(1889-1961)は、「トルストイの百年祭に際して」でこのように語っています。
彼の偉大は「聖なる人」という点にあるのではない。又「他力往生を得た篤信な信仰の人」という点ではない。そういう境地に至りたいという不断の努力に彼の偉大さがあるのである。罪にある私たちと同じ生活を持ち、そうして全く異なった生活にまでそれを深めた点に彼の限りない誘引力があるのである。このような意味で彼は人類の師表である。いつの世になっても思い起こされる師表である。(1928年9月9日朝)注:師表とは、人の師となり手本となること、また、そういう人。

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