スピノザから学ぶ自由な生き方 1

 スピノザ、ベネディクトス・デ・スピノザ Benedictus de Spinozaは、1632年11月24日、オランダ アムステルダムのユダヤ人居住区に生まれました。このファーストネームは、祝福された者という意味だそうです。バールーフ・デ・スピノザという名前もあります。哲学というのは、日常と離れた難しいことを議論するのだと思っていましたが、スピノザは、自由に生きることとか、人間の至福などという誰にでも身近なことについて書いています。これらは、精神科医としても大切なことです。それを追究した人ですので、何か精神医学に生かせると思い、難解ではありますが、時間をかけて少しずつ理解し、お伝えしていけたらと思います。

スピノザ

 まず、スピノザの置かれた環境です。アムステルダムは北緯52度です。ケーニヒスベルクで生涯を過ごしたのはカントですが、北緯54度です。札幌が北緯43度、樺太の一番上が北緯54度です。これは、偶然ではないような気がします。統合失調症患者は、緯度の高いところで発病率も高いという報告もありましたし、緯度が精神に与える影響は良い面、悪い面何かしらあるのではないかと思います。

 画家のフェルメールは、同年の10月31日ごろに生まれたようです。レンブラントも1606年にオランダに生まれました。レンブラントは、光と影の画家と言われているようです。フェルメールの絵も暗い背景の中の人物に光が当てられてその人の人生が浮き立ちます。前にもお話ししましたが、哲学では食べていけないので、スピノザは望遠鏡等のレンズ磨きの仕事をしていたのです。オランダには、ホイヘンスという天文学者もいました。彼は、1629年4月14日にオランダのハーグに生まれています。タイタン(土星の衛星の一つ)の発見、土星の輪の解明をしたそうです。スピノザもハーグに移住していますから、ごく近くにいた可能性が高いと思います。ホイヘンスもスピノザのレンズを使っていたかもしれません。下の絵は、フェルメールの描いた「天文学者」という絵ですが、モデルがスピノザだとする説があるそうです。(國分功一郎:100分de名著 スピノザ エチカ)

フェルメールの描いた「天文学者」

 日本では、貝原益軒が1630年12月17日に生まれています。益軒は、2年早く生まれ、彼らよりずっと長生きして1714年10月5日に福岡で死んでいます。益軒では天が問題になり、スピノザでは、神が問題になっています。彼もよりよく生きるということを考えました。そして、それを伝えようとした点で共通しています。

 スピノザは、レンズ磨きをし、釣りも好きで、絵を描くのも上手だったようです。偉人が本業以外に何をしていたのかに興味があります。二宮金次郎は、わらじを編んでいました。妙好人浅原才市は下駄職人でしたし、ガンジーは、糸車を回しました。単調と思われる仕事、繰り返し、リズムは大切なのかもしれません。毎日の仕事は単調です。一見進歩がないようにみえます。常同などと言われますが、常同は、精神にとってやすらぎをもたらしてくれているのかもしれません。常同を得意とする統合失調症の方は、大切なレジリエンスであることを知っているのかもしれません。常同と創造、不思議な組み合わせです。どちらも大変な価値があるのかもしれません。同じことをやっているのでは進歩がないというのはきっとうそです。ガンジーですが、扱っているのは木綿です。木綿をめぐってイギリスとの間に不平等な問題が生じていました。上杉鷹山は、倹約のために絹ではなく、木綿を自分の着物に用いていますが、武士はこうあるべきだという凝り固まった考えの家臣は反発しました。二宮金次郎は、鷹山のことをどの程度知っていたかわかりませんが、「飯と汁 木綿着物ぞ身を助く 其余は我をせむるのみなり」という道歌を繰り返しています。絹でなくて木綿にせよ。そうすれば、安く手に入るし扱いも楽だ。それ以上のものを望めば、それ以上に労働しなければならないし、争いも起こり不幸に至るというようなことでしょうか。

ガンジーと糸車

 デカルト(ルネ・デカルト)は、1596年にフランスで生まれたが、ドイツ、イタリアなどに滞在し、1628年から1649年までオランダに滞在していました。つまり、スピノザが生まれたときには、デカルトは近くにいて、スピノザが17歳のころに、デカルトは、オランダからスウェーデンに移り住んでいます。2人の偉大な哲学者が、近くにいたということになります。デカルトと貝原益軒は移動とか旅が好きですが、スピノザはオランダにずっといたようですし、カントに至っては、生涯ケーニヒスベルクから出なかったのではなかったようです。「創造は移動距離に比例する」と言った人が誰かいて、それに賛同するという人もホリエモンとか、いるようです。ホリエモンは移動が好きなのでしょう。ロケットまで作っていますし。哲学者でみてみると、哲学の道などといって散歩した人も多かったと思われます。日常と違う体験が刺激となるのでしょうか?イエスも仏陀も白隠もよく移動しています。

エマニュエル・カント

 経営学者のドラッカーは、成果を挙げた経営者に共通する特性は何か?と問われて、「成果を挙げたということだけだ」と言っていますが、これと同じと考えれば、外界を旅するか内界を旅するだけの違いかもしれません。でも、どちらかというと、外界を旅する方が楽なのかもしれません。カントは同じ道の散歩だったと思われますが、毎日のように人を招いて懇談して刺激を得ていたようです。

 さて、スピノザの人生はほとんど生前には評価されず、生前に出版された本は2冊だけ。生活も苦しかったようです。フェルメールも同様だそうです。1656年 24歳ころ、理由は不明とされたようですが、ユダヤ教会から破門されています。その後も無神論者と言われて、危険なため、偽名で出版していました。貝原益軒は18歳の時から黒田藩に仕えましたが、藩主黒田忠之から慶安3年(1650年)20歳の時に免職されて7年間の貧困の浪人生活を送っています。つまり益軒が失職中に、スピノザは、ユダヤ教会から破門されたのです。日本とオランダの距離は9,000km位です。この距離を隔てて、2人の偉人に同じ時期に同じような困難が訪れていたのです。偉人というのは、周囲にとって不都合な存在になってしまうことがしばしばあります。ソクラテスは、若者に悪いことを教えたということで毒杯を飲みましたし、イエスも、ガンジーも、ガリレオも、西郷隆盛も、親鸞も・・・。既得権を脅かすということなのかもしれません。

 貝原益軒の訳者である小児科医の松田道雄によれば、益軒が京都に学んだ時、「伊藤仁斎は心臓神経症らしい病気に悩まされて内省の日々を送っていた」となっています。これは、「偉人のうつ病シリーズ」のネタになりそうです。精神科医では、斎藤茂太が益軒に注目し訳しています。松田道雄(1908年10月26日 – 1998年6月1日)の「育児の百科」(岩波書店)は、未だに書店の店頭に並んでいます。松田の書き物は極めて精緻で完成度が高く、また、適度に大雑把なところもあり読みやすくなっています。

益軒65歳 狩野昌蓮作

 伊藤仁斎は江戸時代の儒学者で、1627年8月30日に京都に生まれています。息子の伊藤東崖による伝記によると、20歳代の後半に、激しい動悸があるなど心身不安定な状態になったとあります。ひきこもること10年になったといいます。「仁斎学講義」という書籍を書いた子安宣邦(こやすのぶくに)によると、学問を禁欲的に追い詰めていった結果であろうといいます。

 仁斎は、救いを仏教や老荘思想や白骨観の法という禅の内観法なども取り入れるなど煩悶し、かなりの苦境だったらしいです。禅宗の僧である白隠が、うつ状態になった時、儒教とか老荘的なものや新興宗教的な方法に助けられるうちに回復し、儒学者の仁斎が危機に陥った時に、仏教的なものに救いを求めるというのは、とても面白いところだと思います。日本的ともいえるのではないでしょうか。仁斎は36歳で病から回復し、教師、古学者として活動が再開できたようです。スピノザがユダヤ教会から破門されたちょうどそのころ、伊藤仁斎は、不安神経症またはうつ病に罹患して深刻な状態だったと考えられます。現代であれば、間違いなく抗うつ薬を使用する状態だったでしょうし、もし、使用していたら、もっと早く回復していたはずです。

 

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