スピノザから学ぶ自由な生き方 6

 ホイヘンスは、オランダのハーグで生まれました(1629年4月14日 – 1695年7月8日)が、その3年後に、スピノザがアムステルダムで生まれています。ホイヘンスは、数学者、物理学者、天文学者であり、自分で望遠鏡を作って土星などを観測していたようです。工藤喜作(訳者)によれば、スピノザとホイヘンスには接点があったようです。スピノザと異なり、ホイヘンスは、その時代に脚光を浴び、スピノザより華やかな人生を歩んだようです。ホイヘンスが望遠鏡を自作し、スピノザはレンズを磨き、スピノザと同じ年に生まれたフェルメールは、「天文学者」という絵を描いています。「天文学者」に描かれている天文学者は、ホイヘンスなのかスピノザなのか、同時代のライプニッツなのか? 1676年、ドイツ人のライプニッツ(1646年 – 1716年)は、スピノザの元を訪れています。30歳頃のライプニッツと44歳頃のスピノザがオランダで会ったのです。

 もう一人、イングランドで生まれたニュートン(1642年 – 1727年)です。ニュートンもスピノザと異なり、王室からナイトの称号を得たり、大学教授だったりと、生前に高い評価をされました。ライプニッツとは、微分積分法の発見の業績で長い間に渡って論争があったようです。

 さて、何が言いたいかですが、2021年6月18日に、バートランド・ラッセルの「幸福論」を読んでいたら、彼らのことが書いてあったことが面白かったからです。安藤貞雄訳、岩波文庫には、以下のように書かれています。「ライプニッツとホイヘンスの間で取り交わされた書簡の中に、ニュートンが気違いになった、といううわさを嘆いている手紙が何通かある。『ニュートン氏の比類なき天才が』と二人は互いに書き送っている。『理性の喪失によって曇らされたなんて、悲しいことではありませんか。』そして、この二人の著名人は、次々と手紙を書き送って、明らかにおもしろがって、そら涙を流していた。実際のところ、二人が偽善的に嘆いていた事件は起こっていなかった。ただ、風変わりな行動の二、三のために、そんな噂が立っていたに過ぎなかった。」

 ラッセルが何を言いたかったかですが、人間の不幸の原因の一つとしてラッセルは「ねたみ」を挙げており、その例として出したものです。「もしも、この情念を荒れ狂うままにしたら、あらゆる優秀なものを破滅させ、さらには、特殊技能の最も有益な行使も不可能にしてしまう」とラッセルは書いています。

 しかし、哲学者でもあったライプニッツとホイヘンスが、ねたみの感情に毒されていた、それに気づかなかった、ということでしょうか。それに比べて、スピノザは、現世の評価にこだわらないようにしていたような気がします。それにしても、なお、人類はねたみの問題を少しも克服できておらず、毎日、問題を生じさせ、犠牲者を出しているような気がします。もっともらしい主張や行動の理由にねたみが隠れている場合が多いのではないでしょうか。

 さて、本題に戻りましょう。第5部「知性の能力あるいは人間の自由について」です。スピノザは、人は感情を絶対的に支配しえないといいます。ここで、感情を意志によって支配できると考えたストア学派を批判します。また、デカルトが、どんな精神でも正しく指導されるならば、自分の感情を絶対的に支配しえないほど弱くはないと結論付けたことを批判します。

 スピノザが大切だという寛容はどこにいったのでしょう。ストア学派のこともデカルトのことも容赦なく批判しています。意見を異にするとき、他の意見を批判的に考えるのは当然ですが、では、寛容とはどういう場面で有効なことなのでしょうか。これから、考察していきましょう。寛容であるべきときと、そうでない方が良い時とがどう区別できるのでしょう。(K)

 もし、心の激情や感情を外部の原因の思想から遠ざけて、それを他の思想(真の思想)に結び付ければ、外部の原因に対する愛や憎しみ、またそのような感情から生ずる心の動揺は消えてしまうだろう。なぜなら、愛や憎しみの形相を構成するものは、外部の原因の観念をともなう喜びあるいは悲しみである。それゆえ、この外部の原因の観念を除去すれば、愛や憎しみの形相も同時に除去され、このような感情は消えてしまう。(S)

 外部の原因の思想ってなんでしたっけ。他人から意地悪なことをされて腹が立っているとしましょう。しかし、真実は、その人が激情にかられた理由が必然的であり、そのような事情をより正確に認識することによって、正しい寛容の態度を得られれば、それに対する負の感情も消えてしまうということでしょうか?

 それゆえ、われわれが感情をより明白に認識するにつれて、それだけ感情はわれわれによって支配され、精神はそれだけ感情から影響を受けることが少なくなる。

 はたして感情の認識でしょうか?正確には、感情を生み出している事情を正しく認識することではないでしょうか? われわれ医療従事者は、患者さんの問題行動に堪えらえないことがあります。人格を傷つけられたとして、怒りの感情を持つ医療従事者もいるでしょう。しかし、その問題行動を引き起こした正確な事情、必然性、病気の性質などが正しく認識できれば認識できるほど、患者さんに対する負の感情は消えていきます。少なくとも私の場合はそう感じます。ただし、そういった認識をするのは簡単ではないような気がします。病気の理解はとても難しいし、専門家でも捉え方に癖があり、それが自分の生育歴や気質、体験、その時のプライベートな事情などに左右されています。精神科医としての成長の一つがそういうことなのかもしれません。深く理解することによって、不可避な悲しさを知るような。

 各人は自分や自分の感情を絶対的でなくても、少なくとも部分的に明瞭・判明に認識する力を持ち、したがってそれだけこれらの感情から影響を受けないようにすることができる。それゆえ、われわれがとくに努力しなければならないことは、それぞれの感情をできるだけ明瞭に・判明に認識し、かくて精神が明瞭・判明に知覚するもの、またそれにまったく満足を見出すものを思惟するように、精神を感情から決定することである。したがって、われわれの努力しなければならないことは、感情そのものを外部の原因の思想から遠ざけ、真の思想に結び付けることである。その結果、愛や憎しみなどは消えてしまうばかりか、そのような感情から生じがちな衝動や欲望も抑えられるだろう。

 感情を認識するということはどういうことでしょう。怒りの感情そのものは感情なので認識はできないのではないかと私は思います。やはり、感情の出自というか、事情とか背景とか理由とかのことでしょうか? この項は、仏陀の欲望を滅する方法に似ています。仏陀は、欲望の原因を滅することにより、愛憎から逃れようとしたのですから。スピノザと仏陀、ここは似ていますね。

 われわれは、他の人々を自分の思い通りに生活させようと欲することが人間の本性に備わっていると主張したが、この衝動は確かに理性によって導かれない人には受動であり、それは名誉欲と呼ばれ、傲慢とたいして変わらない。これに反して、理性の命令によって生活する人には能動あるいは徳であり、敬虔(けいけん)といわれる。かくていっさいの衝動と欲望は、非十全な観念から生じる限りにおいてのみ受動であり、またそれらが十全な観念から引き起こされたときには徳とみなされるのである。なぜなら、ある行動にわれわれを決定させるいっさいの欲望は、十全な観念からも、また非十全な観念からも生じてくるからである。

 「他の人々を自分の思い通りに生活させようと欲すること」が、何で名誉欲なのでしょうか? 他の人々から称賛されたいことが、他の人々を自分の思い通りに生活させようと欲することだからでしょうか。理性の命令によって、他の人々を自分の思い通りに生活させようと欲するとは具体的にどういうことでしょうか? よくわかりません。敬虔とは、スピノザによれば、理性の導きによって生きることからわいてくる善をなそうとする欲望であるとのことです。

 精神は、あらゆるものを必然的なものとして認識する限り、感情に対してより大きな能力を持っている。あるいは感情から影響を受けることがより少ない。失われた善にたいしての悲しみは、その善を失った人間がそれをどんな仕方によっても保持することができなかったと考えるならば、ただちにやわらげられることを、われわれは知っているからである。

 選択の余地があったとか、自分の判断が悪かったのではないかということがある限り、苦しい気持ちが続いてしまいます。必然であったと思えれば、受け入れられるかもしれません。でも、いつも必ずできるでしょうか。マザーテレサの母親は、マザーが修道女になると告げたとき、生涯会えなくなるので、あまりのショックに1日、引きこもります。そして、決心して受け入れます。それは、必然的なものとしてとらえられたからでしょうか。神の意志であると理解したのでしょうか? マザーにとっても必然なのでしょうか。

 われわれが自分の感情を完全に認識しないうちは、われわれのなしうる最善のことは、正しい生活の仕方あるいは一定の生活規則を立て、それを記憶にとどめ、人生で出会う個々のことがらにたえずそれらを適用することである。たとえば、われわれは憎しみを愛や寛容の精神によって克服し、憎み返すことによって報復してはならないということを生活規則の中に取り入れた。しかし、理性のこの命令を必要とあらば常に思い浮かべられるように、われわれは、人間がおかす共通の不法について熟考し、それが寛容によってもっともよくさけられる方法と手段について再三熟慮しておかなければならない。というのは、こうすることによってわれわれは、不法の像をこの生活規則の概念と結び付け、そしてわれわれに不法が加えられたとき、この規則を常に思い浮かべることができるからである。

 初心者は、自分の生活規則とか修養の規則のようなものに従って慎重に生活したらいいということでしょうか。理性に従って生活するとは、どういうことかというと、例のように、愛と寛容の精神にしたがって生活するということがそのひとつなのでしょう。でも、他にはどんな場合があるのでしょうか? また、寛容に限界はないのでしょうか。ミヤンマーや香港は、寛容な姿勢で勝利を収められるのでしょうか。不服従はこの場合、寛容に入るのでしょうか? 

 同じような仕方で、恐怖心を除去するために、勇気について考えなければならない。つまり、人生において平素起こりがちな危険を数え上げ、しばしばこれを思い浮かべなければならない。そして、精神の沈着さと強さによってそれをもっともよくさけ、克服しうるような方法を考えなければならない。

 ごく普通の慎重なものの考え方だと思います。気を付けて生活すること、曹子の最後の言葉、「戦戦兢兢・薄氷を踏む思いで身を慎んできた・・」を思い起こします。

 注意しなければならないことは、われわれが思想や像を秩序付けるさいに、常に喜びの感情から行為へと決定されるように、おのおののものの中で善であるものに注目しなければならないということである。たとえば、自分が名誉欲に駆られすぎていると反省したならば、それを正しく利用することを考えなければならない。だが、名誉の濫用、そのむなしさ、人間の移り気、そのほかこれらに類することを考えてはならない。このようなことは不健康な心の持ち主だけが考えるのである。なぜなら、野心家は、自分の求める名誉の獲得に絶望する時、このような考えによってもっとも多く自分を傷つけ、怒りを発しながら自分を賢く見せたがるからである。それゆえ、名誉の濫用やこの世のむなしさについてもっとも多く慨嘆する者が名誉をもっとも多く欲している人であることは確かである。

 名誉欲が強すぎるのは望ましくないでしょう。しかし、スピノザは名誉欲を全面的に否定しているわけではないようです。人間は完全に理性的であるとはいえませんので、少なくとも栄誉欲を正しく利用する方向にすすめればよいと考えています。その中で、名誉が思う通りに得られなかった場合に、イソップ童話の”すっぱいぶどう”のようになってはいけないといいます。腹立ちまぎれに、怒りをぶつけるというのも困ります。他人からいつも称賛されるのは難しいですし、買いかぶるのも、買いかぶられるのも良くないとスピノザはいってましたね。

 自分の感情や衝動を自由への愛によって抑えようとする人は、できるだけ徳や徳の原因を知り、徳の真の認識から生ずる喜びによって心を満たすように努めるであろう。しかも人間の欠点を考察し、人間を軽蔑し、見せかけの自由を喜んだりすることは決してしないであろう。そして、これらのことを注意深く観察し、それを実行する人は、たしかに短時日のうちに自分の行為の大部分を理性の命令から導き出すことができるであろう。

 徳の真の認識とは何でしょう。喜びはいつも生じるのでしょうか。どういう喜びで、どう努めたらよいのでしょう。

 自分自身や自分の感情を明瞭・判明に認識する人は、神を愛する。そして自分自身や自分の感情をより多く認識するにつれて、それだけ多く神を愛する。神はだれをも愛さないし、まただれをも憎まない。神があらゆることの原因だとするならば、神を悲しみの原因でもあるとみなせるのではないかというという意見があるかもしれない。しかし、われわれが悲しみの原因を認識すると、悲しみは受動であることをやめてしまい、悲しみであることをやめる。したがって、神が悲しみの原因であると認識する限り、われわれは喜びを感じる。

 感情と言えば、喜びとか、悲しみとか、怒りとか、無関心とかでしょうけれども、それを明瞭に認識するとはどういうことでしょう。そのような人は神を愛するとはどういうことでしょう。今までのところが十分理解できていればなんてことはないのでしょうけれども。神は良い人にも悪い人にも雨を降らすという聖書の言葉がありますが、神はだれも愛さないし、だれも憎まない。そのような神を愛するとはどういうことでしょう。良い精神科医になるのには、神のようになれば良いとするならば、精神科医は、患者を愛しもしなければ憎みもしないということになるのでしょうか。そうかもしれません。

 心の病や不幸の主な原因が、多くの転変に支配されるもの、そしてわれわれがけっして所有することができないものにたいして、われわれが過度の愛着を抱くことにある、ということである。なぜなら、だれも、自分の愛するものにたいしてでなければ、不安をいだいたり、心をわずらわす必要もないし、また不法、疑惑、憎しみなどは、だれも真に所有することができないものにたいしての愛からのみ生ずるからである。

 ここも仏教でいう執着と似ていると思います。仏教では執着によって苦しむともいいます。スピノザの言っていることは分かるような気もしますが、精神科医からみると、そうでない気もします。無理な愛着、無理な要求というのは、むしろ、病気の結果としての症状であるような気がします。安定した精神状態で、状況が正しく認識されていれば、過度の愛着などは、起こりにくい気がします。また、何かを成し遂げたいと執着することは苦しくもありますが、人類の発展の中で大きな役割を果たしてきたのではないでしょうか。刑事も星を挙げることに執着します。

 

 

 

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