スピノザから学ぶ自由な生き方 3

 エチカの第2部は、「精神の本性と起源について」です。ここで、スピノザが説明するのは、「神の本質、いいかえれば永遠・無限の存在者の本質から必然的に生じなければならないことがら」であるといいます。その中でも、「人間精神と人間の最高の幸福の認識に、われわれを導くことのできることがら」を説明するといっています。

 ここで、早くも脱線しますが、彼は自分の目指す道が幸福の追求にあるとしています。この理由ですが、彼が哲学的探究をするようになったのは、「死に至る病」に陥ったことを挙げています。それから逃れるために、哲学にのめりこんだのです。生きる意味や本当の幸福の探求は、「生きる力を与えてくれる薬」にほかならなかったと「スピノザ良く生きるための哲学」の著者ルノワールは語っています。

 彼の「死に至る病」(キルケゴールみたいですね)は、うつ病ないし、少なくともうつ状態でしょう。偉人のうつ病を探索してきた私にとっては興味深いことです。その誘因として、師であるファン・デン・エンデンの娘クララとの失恋をルノワールは挙げています。また、前にもお伝えした、アムステルダムのユダヤ教長老たちの決定したユダヤ人共同体との絶縁という厳罰です。破門です。この破門状の全文が、ルノワールの著書に挙げられていますが内容は強烈です。スピノザはわずか23歳です。破門の理由ですが、彼が共同体から距離をとったことや年金の辞退、思想的な問題があったと思われますが、よくはわかりません。ここで言えるのは、スピノザは非常に不寛容な待遇を受けたのです。寛容の大切さは、やがてスピノザがエチカでたびたび述べているところです。ヴォルテールも寛容について語っていますし、キリスト教聖書の「七の七十倍許せ」とイエスが言ったのもおなじみですね。

 寛容の関連で言いますが、スピノザはほとんど怒ったことが無かったのですが、ただ一回だけ怒ったことがあります。國分功一郎によると、1672年、彼の住んでいたハーグで、彼が共感を寄せていた共和派の指導者が扇動された群衆により広場で虐殺されたのです。彼はめずらしく憤り、「汝ら野蛮極まる者ども」とラテン語で書いた抗議文を広場に掲げようとして下宿の主人に止められたといいます。

 ここで余談ですが、憤りはキリストの場合も典型的なのは1回だけではないでしょうか。記憶で申し訳ないのですが、神殿の前で商売のために店を並べていた人々に対して怒ってぶちこわしたのではないでしたっけ。また、マザー・テレサも1回だけ、「死を待つ人の家」で活動していた時、立ち退けと言ってきた人たちに対して、それなら私を殺してからおやりなさいと啖呵を切ったのではなかったでしたっけ。偉人の怒りというのも面白いですね。

 妙好人は怒らないけれどもぎくりとする言葉を吐きますね。因幡の源左はいつも何でも肯定的にとらえます。例えば、土砂降りの雨にあって、住職に大変だったなあといわれても、鼻の穴が下に向いててようござんしたなどと言うのです。また、集まりがあって、源左がイワシを焼くのですが、頭を取るのがいいという人と頭をつけて焼くのだという人がおり、源左ははいはいと言って、頭のあるイワシとないイワシを出すのです。源左にとってはどうでもいいことなのです。意見をまとめるのも面倒なのです。

 でも源左にはこういうことがありました。一燈園の西田天香が、我慢が大切だという講演をしたと按摩をしている源左にいうのです。源左は、自分は我慢したことが無い、親様が我慢してくれているのですといいます。源左には我慢という無理がないのです。他力なのです。天香は、意味が分からなくて聞き返すのです。そして、自分が按摩をしてもらえるような爺さんではないといいます。でも、なんで源左はそう言ったのでしょうか。言わなかったらどうだったのでしょうか。妙好人は、常識を言われると、超常識で返すようなところがあります。寺の中で寝そべってくつろいでいた妙好人(誰だか忘れました)が、寺の神聖な場所でだらしないとしかられるわけです。その時、妙好人はこう応えます。親様の前だから(子供のよういくつろいで)いいのだ。そういうあなたは、(そんなにかしこまって)継子なのか?というわけです。ぐうの音も出ないことをいうわけです。いい気になっているのをちょっとたしなめるというところが妙好人にはあります。

 スピノザにもどります。確かにうつ状態を惹起するような状況があったのは事実ですが、状況だけでなったというより、彼の中に、うつへの強い傾向があったのではないかと思いたいです。このように目的に現実を合わせようとするなどの誤った思考はスピノザに怒られるかもしれません。彼は、神が目的を持っていないと言っています。神が怒って、人を懲らしめる目的で災害を起こすなどという人々の中にある考えは間違っているというのです。でも、人間はついついそういう偏見を持ってしまいます。スピノザの幸福への道はこうした人間の偏見、誤った不寛容、先入観などを修正し、正しい認識を獲得していく過程ともいえましょう。

 スピノザは、ともかく人間から否定された人間としてスタートしたのですが、しかも、生前にはほとんど本を出版できず、経済的にも裕福ではなかったのですが、それでも彼は人や自分自身を肯定し寛容に接するという態度を維持できたのですからすごいと思います。ほとんど迫害されてきたのにです。精神医学的な治療のヒントに少しでもなればいいなと思います。

 元にもどりましょう。この第2部では、物体、観念、持続、個物などの定義に始まり、5つの公理が提示され、その後、49の定義が発表されます。またまた難解です。定理のいくつかを紹介しましょう。

定理一 思惟は神の属性である。あるいは神は思惟するものである。さまざまな思想は、神の本性を表現する様態であるので、思惟は神の無限の属性のうちの一つである。

定理二 延長は神の属性である。あるいは神は延長するものである。ものとか形のあるものは、神から生まれている、あるいは神の様態である。定理から派生して、人間の知性は神の無限知性の一部である。

その後、公理が出てきたり、補助定理が出てきたりで、やはり理解は難しいです。

定理48は、こうです。精神のうちには、絶対的な意志あるいは自由な意志は存在しない。むしろ精神は、このこと、あのことを意欲するように原因によって決定され、この原因も他の原因によって決定され、さらにその原因も他の原因によって決定される。そしてこのように無限に進む。さらに、精神のうちには、同様に、認識し、欲求し、愛するなどの能力がないことも証明されるという。人間は自分を自由と思うが、そうではなくて、衝動や意欲に駆り立てる原因を知らないのだといいます。

 スピノザが繰り返し語っているのは、人間は自分の自由な意志で何かを選択したと思ってしまうのですが、その意思を生じた原因があり、また、それを生じた原因があるのであって、決められているのだといいます。しかも、決められているということを認識できないのであるといいます。自分で決めたときに、思うようにいかないとき、自分の選択が間違ったのだと考えて、自分を責めてしまうかもしれません。うつになるときというのはそういうときなのかもしれません。しかも、現実の生活の中では、それをやったから悪かったののではないかと指摘する人もいるのです。ますます自分を責めることになります。指摘する人も気が付かないのだと思います。

 スピノザはこれに対して、神から決められていたことだとし、そういう考えによって、自分が自分を責める、あるいは人が自分を責めるということからの救済を示してくれているようにも思います。少し、人間が強くなりそうです。無意識のうちに、私を苦しめる、つまり、自分が悪いことを自覚せよとい人がいるわけですが、そういう人を寛容に受け止めなければなりません。自分のことがわからないのです。そうスピノザは語っているように思います。世の中のすごく大きな不幸は、自分で自分を責めてしまうことです。それを助長する人もいるのです。そんな無駄なことをやめろとスピノザは言っています。

この第2部の終わりに、スピノザは次のようにまとめています。これはわかりやすいです。結論までの道筋は理解するのは難しいのですが。

1. われわれは神の命令によってのみ行動しており、神のことを深く認識するにしたがって、ますますそのようになっていく。われわれの最高の幸福は、神を認識することにしかない。この認識にって、愛と敬虔なこころが命ずることだけをなすようになる。徳と神への奉仕は、それだけで意味のあることであり、それを困難として神からの報酬を期待する人は間違っており、徳があるとは言えない。

2. 運命に関することとか、能力を超えたことに対しては、われわれはそれを平然と受け入れ耐えしのばなければならない。一切が神の永遠の決定から生じてくるからである。自分を責める必要はないということです。

3. この考え方は、何人も憎まず、軽蔑せず、嘲笑せず、だれにも怒ることなく、妬まないことを教えてくれる。自分の所有するものに満足しなければならないこと、隣人への援助は女性的な同情、えこひいき、迷信からではなく、理性の指導のみによってなすべきことを教えてくれる。私は、精神科の治療において、女性的な同情というものは貴重なものだと思っていましたが、スピノザは否定しています。スピノザの指摘はわかります。

4. 人々を奴隷的に奉仕させるためでなく、最善のことがらを自由になすように、彼らを指導し統治しなければならない。

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