明治6年(1873)文部省の医務課が医務局となり、翌7年(1874)に医制が発布されました。医制(いせい、明治7年8月18日文部省ヨリ東京京都大阪三府ヘ達)とは、文部省が東京府、京都府、大阪府の三府への通達という形で発布された、医療制度や衛生行政に関する各種規定を定めた日本の法令だそうです。全76条からなり、医業の許可制などを定めているものです。

 当時は、国民の衛生状態も悪く、政府には、速やかに保健衛生全般に関する制度を整備することが求められており、日本に近代的な医事衛生制度を導入するために制定されたのが医制だそうです。医制の内容は、全部で76条からなりますが、衛生行政全般、医学校、教員と外国教師、医師、薬舗と売薬に関する規定となっています。

 明治8年(1875)に京都癲狂院ができ、明治12年(1879)には、東京大学、愛知医学校で精神医学の講義が始まりました。同年には、東京府癲狂院(→巣鴨病院→松沢病院)ができました。しかし、多くの患者は私宅で家族がみていたようです。

 そして、明治12年に相馬藩主 相馬誠胤が発病し、明治25年頃まで10年以上にわたり、相馬事件のゴタゴタが続きました。→わが国の精神医療の歴史Ⅲ相馬事件 その影響もあり、明治33年(1900)7月1日に精神病者監護法ができました。ここで、私宅監置が制度化されました。全国の監置室の図面や写真が呉らの資料に網羅されています。

 その内容ですが、「後見人,配偶者,親権を行う父又は母,戸主,親族会で選任した四親等以内の親族を精神病者の監護義務者として,その順位を定める。また,監護義務者がないか,いてもその義務を履行できないときは住所地,所在地の市区町村長に監護の義務を負わせる」、「精神病者を監置できるのは監護義務者だけで、患者を私宅や病院に監置するには、監護義務者は医師の診断書を添えて、警察署を経て地方長官に願い出て許可を得る」、「行政官庁に監置を監督する権限を与える」などの条文があるそうです。しかし、私宅監置が合法化されたので、医療の質からみるときわめて不十分であったようです。しかし、病床が少なく、私宅監置を合法化するしか方法がなかったのかもしれません。家族は、監護の義務を負わされて責任重大です。現在は、措置入院は2人の精神保健指定医の診断で入院、医療保護入院は1人の指定医の診断と家族等の同意で入院ですので、家族の責任や義務はずいぶん軽減されました。

明治34年本邦精神医学の先駆者と言われた呉秀三が東大教授として欧州から帰国しました。そして、すぐに病院改革を開始しました。→わが国の精神医療の歴史Ⅱベルツ呉秀三身体拘束

明治35年精神病者救治会が設立されて精神保健運動が行われることになった。日本神経学会が発足。現在の日本精神神経学会(精神科医が最も多く在籍する学会)の前身です。

明治39年「官立学校二精神科設置」の決議され、精神科が医学部のある公立の大学に置かれることになりました。

 明治41年1月以降公立精神病院およびその退院者につき明治42年に調査を行った結果,患者数 約25,000人,病床 約2,500床,私宅監置 約3,000人であったといいます。この時の日本の人口は約5000万人ですから、精神科患者数は人口当たり、現在の50分の1、病床数も50分の1くらいでしょうか。医療が行き届かず、ほとんど放置されていたとしかいえません

巣鴨病院(明治時代の地図)

 このころ、東京府癲狂院は、巣鴨病院となっていたのですが、場所は、小石川駕籠町:現文京区本駒込二、六丁目、千石一~四丁目で、ほとんどが巣鴨病院と岩崎男爵邸で占められていたとのことです。埼玉大学の谷謙二の優れた古地図ソフトで調べると上図のように、巣鴨病院の場所がわかります。現在は都立小石川中等教育学校、駕籠町小学校の当たりではないかと思います)都営三田線の千石駅のすぐ東側です。

 明治37年頃から作業療法も始まりました。これらは呉が中心にすすめたものと考えられます。作業療法は榊も計画しましたが実行に移されず、呉の要請にも東京府は理解を示さず、これまた呉が関わった民間の救治会の支援により、準備して作業療法が始まったといいます。(秋元)また、明治36年頃に入局した石川貞吉の記録では、呉は、狂は人をして嫌悪の情を起こさしめるというので、病名から狂の字を取り、偏執病、麻痺性痴呆、破瓜病等に改め、一般にも、狂疾、発狂、気違などと称する文字は少なくなり、精神障害、精神異常、精神発作などの言葉が使われるようになったといいます。明治41年には外来棟が建てられ、外来診療が始まったそうです。明治42年には巣鴨病院も敷地2万3千坪、446床になっていたと秋元はいっています。

明治44年官立精神病院設置の決議がなされた。これは、上記の明治42年の調査で、収容施設の拡充が必要と判断されたからのようです。呉は、明治43年から私宅監置の状況を調査していましたが、出版されたのは大正8年ですので、その前にすでに、私宅監置は問題があるとされたのでしょう。家の中に木造の保護室があるのですから、本人も家族もたいへんです。人も呼べないですよね。

大正6年(1917)精神障害者の全国調査により,精神病者総数65,000人 のうち,5,000人が入院中であり,私宅監置を含め約6万人が医療の枠外にあった。まだまだ、適切な治療がされていなかったといえます。この時の人口は 約6000万人ですので、人口の 0.11%が精神病患者、入院数は現在が約30万人ですからすごく少ないということになります。ほとんどの患者が治療を受けられずにいました。

大正8年(1919)に「精神病者監護法」が「精神病院法」にかわりました。
精神病院法の内容は、
① 内務大臣は道府県に精神病院の設置を命じることができ、・・・また内務大臣はこれに代わるものとして公私立病院を指定することができる(代用精神病院)。
② 地方長官は、医師の診断により、精神病者監護法によって市区町村長が監護すべき者、罪を犯したもので司法官庁が特に危険があると認める場合・・・・を①の精神病院に入院させることができる。
③・・・・また、①の精神病院に対し建築・設備費の二分の一を国庫が補助する。

 この精神病院法によって、精神病に対する公共の責任として公的精神病院を設置する考えが明らかにされた、しかし、予算不足のために、公立病院の建設はほとんどすすまなかったようです。

 欧米では精神医療が公立でされてきたが,日本では民間が担うことになりました。ともかく患者さんを収容するということが必要とされたのでしょう。山崎は、ここが問題で、民間病院を借り上げて公立病院の代わりにする形を作ったことになるといいます。その結果、欧米では9割が公立なのに日本では私立が9割になったといいます。

 昭和元年には、日本精神衛生会が設置されました。同会のホームページによると、「日本精神衛生会は世界でも古い精神衛生のNGO(非政府機関)の一つとして明治35年(1902)に創設された精神病者慈善救治会に端を発し、その後幾多の変遷を経て、昭和25年(1950)に財団法人日本精神衛生会として、現在の組織が発足した」とのことです。

 昭和6年の調査によれば患者総数 7万人、収容数 1万5千人、人口当たりの病床数は、諸外国に比して10分の1の低さを示し、病院数は約90、病院法による施設を持つ府県はわずかに3府17県であったとされる。

 昭和13年には厚生省が設置されました。補助金を付けることで,昭和15年には,精神病床は25,000床程度まで増床しましたが、戦時において精神病の保護はまったくかえりみられず、戦火による消失や経営難で閉鎖され、終戦時には、わずか4000床にまで減少しました。

昭和25年(1950)5月1日に「精神衛生法」が制定されました。精神病者監護法と精神病院法を廃止して引き継いだものであり、以下のような内容です。
① 精神病院の設置を都道府県に義務付けた。都道府県はそれに代わる指定病院を指定する。
② 一般人、警察官、検察官等からの通報制度を作った。
③ 保護義務者の制度を設けた。
④ 自傷他害のある精神障碍者の措置入院制度を設けた。
⑤ 保護義務者の同意による入院などを設けた。
⑥ 自傷他害のおそれのある精神障碍者が直ちに入院できないとき、保護義務者は知事の許可を得て精神病院以外の場所で「保護拘束」することができる。
⑦ 私宅監置制度を1年間で廃止する。
⑧ 狭義の精神障碍者だけでなく、精神薄弱者、精神病質者も対象とする。
⑨ 精神障害の発生予防、精神的健康の保持向上の考えを取り入れた。
⑩ 精神衛生審議会を新設して、精神保健行政の推進を図った。
⑪ 精神障害者を拘束する必要を決定する精神衛生鑑定医制度が設けられた。

昭和27年には、国立精神衛生研究所が設置され、精神保健に関する総合的な調査研究が行われるようになった。

昭和28年(1953)精神神経学会と精神衛生会の理事長を兼ねていたのは内村祐之東大教授ですが、精神衛生会が、国及び厚生省に対して、精神障害者の遺伝を防止するため優生手術実施を促進するという要望書を提出した。これで、精神障害者に、人工妊娠中絶などの処置が行われた。その後、問題となり、補償する法律が制定された。現在ではとても考えられない要望で驚くべきことです。それも、内村鑑三の息子が行ったというのはどういうことでしょうか。

昭和29年、精神衛生法の改正により、覚せい剤中毒が同法の対象となった。また、精神病院の普及を図るため、国庫補助が拡大された。

昭和29年(1954)年,実態調査により,患者数の推定が130万人,うち要入院は 35万人で、病床は3万5千床しかなかった。山崎によれば、この 35万床が厚生省の目標となったとしています。国は補助金を付けて民間精神病院建設を進め,昭和35年(1960)には,85,000床まで増加した。民間の力を借りたのがわが国の特徴だと思います。どうして外国と違う道を歩んだのでしょうか。民間の活力を利用するというのは、現代では普通のことなのですが、他国はほとんど公営だったのです。

昭和31年、厚生省公衆衛生局に精神衛生課が新設された。

昭和33年、精神科特例ができました。病床は増えたけれども働き手が少なく、精神病床の医師は一般科の1/3でよく、看護師は2/3でよいという事務次官通達がありました(10月2日)。山崎によると、それでも足りないので、4日後に「先日出した通達は別段守らなくてよい」というとんでもない通知が出たとしています。(1958年10月06日 厚生省医務局長通知(発医第809号)医師の確保が困難な場合暫定的にこれを考慮し運用することも可.)この辺の下りは、だんだん消されていくような気がします。ともかく、こんなことまでしても国は、急いで精神病床を増やさないといけないと確信していたのです。そういう事情が何だったのか資料を調べても私にはよくわかりません。国民や団体からの強い突き上げがあったのでしょうか。しかし、現在でも地方では精神科の医師は足りないですし、精神科特例はなければ地方の精神科医療の継続は困難なように思われます。また、財政的にも精神科特例があるために、入院費が低く抑えられ成り立っているといえましょう。しかし、その当時は、病床の増加を目指すことを国も厚生省も疑いなく必死にすすめたようです。当時は欧米に追い付こうと、そうしたわけですが、最近も欧米に追い付こうと、病床削減を目指しています。何が正しいのでしょうか。

昭和36年,ジョン・F・ ケネディが大統領になり,日本とは対極に精神病院の脱施設化が始まりました。山崎によれば、4000-5000床の州立病院の公務員の給与が払えないこと,州立病院内での人権侵害があったとのこと。環境も劣悪だったらしい。山崎の考えでは以下のようになっています。「ケネディの脱施設化は失敗します。それは地域に受け皿をきちんと作っていなかったためで、退院した患者はホ-ムレスになったり、犯罪を犯して刑務所に入ったり、自殺してしまったりという結果になります。1960年代の州立病院は、大きな講堂にただベッドだけが並んでいてプライバシーも尊厳もありません。患者さんは日がな日向ぼっこしているか病棟内をうろうろしているのが、当時の州立病院の現状でした」。

昭和38年には精神障害の実態調査が行われ、法の全面改正が準備されていた。

昭和39年(1964)ライシャワー事件については別項でのべましたが、マスコミもあおる形となり、閉鎖処遇が推進されたようです。→わが国の精神医療の歴史Ⅳライシャワー事件

昭和40年6月、そのような状況の中で、精神衛生法の改正が行われた。
① 保健所を精神保健行政の第一線機関として位置づけ、相談事業等を強化。
② 保健所などへの技術指導等を行う精神衛生センターを各都道府県に設置。
③ 通院医療費の二分の一を公費負担する。
④ 警察官、検察官などの通報・届け出制度を強化。
⑤ 措置入院制度の手続きについて整備。

昭和40年の精神病床は 17万床、人口万対17.6床でした。

昭和43年(1968)クラーク勧告。WHOは、英国ケンブリッジの精神医療改革で実績を上げたDHクラーク氏を日本に派遣した。日本側の責任者は加藤正明国立精神衛生研究所所長。このまま入院中心だと、高齢者が増えて大変なことになると指摘しました。

精神衛生を部局まで引き上げるなど政府への提言、日本の精神科病院では長期収容により無欲状態になり、国家財政を圧迫している。社会療法、作業療法、治療的コミュニティーが有効なので、入院患者の増加を防ぐため、積極的な治療とリハビリテーションを推進すべきである。入院治療より外来治療をすすめ、精神療法は高度の技術を要するものであるため、外科と同等がそれ以上の診療報酬にすることが望ましい。その他、アフターケア、精神科専門職の育成、リハビリテーションの推進などを提言した。

ところが、この勧告は全く無視されたといいます。加藤正明氏は、今年3月の日本社会精神医学会の講演で、当時の厚生省の課長がクラーク勧告に関する記者会見で「斜陽のイギリスから学ぶものは何もない」と話し、全く注目されなくなった事情を紹介しています。(伊勢田堯)山崎も「なぜか日本政府はこれを受け入れず」としています。

昭和43年に東大安田講堂が選挙されるなど学生運動が活発化。昭和44年には、精神神経学会金沢大会が、ヘルメット、鉄パイプの医師たちの乱入で大荒れとなりました。会長講演、シンポジウム、一般演題は行われず、精神科医療を回復し、真の精神科たらんとする学会認定制を考えるべきだという若い精神科医の意見が反映されたためだったと山口は言います。また、東大の全共闘が病棟を閉鎖して、外来派の民生系の医師たちと対立しました。

昭和44年 日本精神神経学会 金沢大会の立て看板

昭和49年には、作業療法とデイケアが点数化されました。

昭和50年には、精神病床28万床、人口万対24.9床となった。外来患者数も増加しました。一方、措置入院患者は、昭和45年の7.7万人をピークに、昭和60年には、3.1万人となっています。医療技術の進歩と地方医療の推進によるのでしょうか。

昭和59年(1984)に宇都宮病院事件が起こりました。これは、山崎によれば、東大の全共闘派が朝日新聞を使って患者さんに告発をさせたことから明らかになりました。

昭和62年に精神衛生法の改正が行われました。
① 法律の名称を精神保健法にかえました。
② 任意入院制度の創設
③ 入院時等の書面による告知制度
④ 精神衛生鑑定医制度を精神保健指定医制度に変更
⑤ 精神医療審査会制度ができた
⑥ 応急入院制度ができた

平成6年4月1日施行の精神保健法の改正
① 精神障害者地域生活援助事業(グループホーム)が法定化された
② 「保護義務者」が「保護者」という名称になった
などなど

平成7年7月1日施行の精神保健法
① 「精神保健法」が「精神保健及び精神障害者福祉に関する法律」になった 「精神保健福祉法」とふつう呼ばれるようになった
② 精神障害者保健福祉手帳ができた
③ 社会復帰施設として、生活訓練施設(援護寮)、授産施設、福祉ホーム、福祉工場の4施設類型
④ 医療保護入院を行う病院では精神保健指定医を置く
⑤ 医療保護入院時の告知の徹底

平成11年の精神保健福祉法の改正
① 入院を要する精神障害者を移送する制度
② 社会復帰施設に生活相談を行う精神障害者地域生活支援センターを追加
③ 在宅福祉事業に、グループホームのほか、居宅介護等事業(ホームヘルプサービス)、短期入所事業(ショートステイ)を追加

平成17年の精神保健福祉法の改正で、精神分裂病が統合失調症になった

平成25年の改正では、保護者制度がなくなった

 

文献
四訂精神保健福祉法詳解 中央法規 2016
秋元波留夫:実践精神医学 日本文化科学社
谷謙二: 今昔マップ 埼玉大学
山崎學:精神科医療の将来展望 日精協誌 38、2019
山口成良:金沢総会後40年を振り返って 精神経誌 2009
伊勢田堯:クラーク勧告の意味するもの-歴史的検証-

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